ガンディー2

出典: Jinkawiki

ガンディー


経歴 1869年 10月2日、インドのカシャワール半島のポルバンダールで、父カラムチャーンド・ガンデイと母パトリバイの間に4人兄弟の末っ子として生まれる。 1882年 13歳のとき、カストゥルバ・マーカンジーと結婚する。 1885年 父が死去。 1888年 長男ハリラール誕生。法律を学ぶためイギリスにわたる。 1889年 弁護士の資格を得て帰国、開業するが失敗。 1893年 商社顧問として単身南アフリカに赴き、人種差別に衝撃を受ける。 1894年 インド人を差別する改正法の反対委員会の書記長をかってでる。 1899年 看護隊を組織して、ボーア戦争に参加する。 1904年 ラスキンの著作に感銘、フェニックス農園を開く。 1906年 ズルー族の反乱に看護奉仕隊を結成して従事する。 1908年 非暴力運動を組織し、初の入獄。 1914年 闘争に勝利、インド人救貧法が成立。 1915年 22年ぶりに帰国。ボンペイ州のサバルマティ川のそばにアシラムを作る。 1917年 ビハール州で藍栽培農民を百年来の地主の圧政から解放 1919年 ローラット法案に反対して全国一斉ストライキを指導。 1921年 ボンペイでイギリス製衣類の焼却。非協力運動の推進。 1922年 警官と小作人が流血事件を起こし、暴動の火があがる。ガンデイは非協力運動を中止する。再び、投獄される。 1930年 ダンディの海岸に向けて塩の行進を始める。 1933年 『ハリジャン』紙を創刊、不可触民解放運動を展開する。 1936年 ワルダ近郊のセワグラムにアシュラム(道場)を建設する。 1942年 イギリス政府に対して、『インドを立ち去れ』の最後通告を提示する。 1944年 妻カストルバーイ死去。 1946年 東ベンガルの村落行脚を開始、コミュショナル対立鎮静化に努める。 1948年 ヒンドゥー教至上主義者の青年により暗殺。享保79歳。


人物 本名はモーハンダース・カラムチャーンド・ガンデイ。父はポルバンダール地方の首長の職種にあった。幼少期は寺院に通い、ヒンズー教、回教などの教典を学ぶ。伝統的宗教観を支えとして、インド国民議会派を中心に、非暴力非協力の反英国独立運動を全インドに展開する。しかし、排他的原理主義反対を訴えながら、ムスリム勢力が結集したパーキスターンの分離独立を招き、ヒンドゥー右翼青年の凶弾に倒れてしまう。ガンディは、イギリスの統治下にあるインドに、統一体としての国家、及び信教の自由という感覚を持ち込んだ初めての人である。過去にこのような考え方を表明したインド人は一人もいない。宗教的熱情と政治的洞察力を同時に持ち合わせた人間である。いまなお、勇気と決断、信仰ある人物として語りつがれている。


菜食主義 ガンディが肉を食べないのは、もともとは厳しい菜食主義を採るヴィシュヌ派に生まれたことによっている。しかし、彼とて完全に菜食主義を守り抜いてきたわけではない。インドの高校時代に「悪友」の誘いに負け、ひそかに肉を食べたことがあった。ただ、イギリスを渡るときは、母に対して肉と酒には触れない、という厳しい誓いを立てたために、菜食主義を捨てることができなかった。 ガンディが母ゆえの菜食主義ではなく、自ら選んだ菜食主義になったのは、ファーリントン・ストリートに菜食主義の食堂を見つけたこと・ソルトの『菜食主義のすすめ』を読んだことが挙げられる。その論理は 人間は動物より上等かもしれない、しかし、上等であることは下等な動物を餌食にしてもよいということではなく、下等な動物を守るべきだ、という意味である。 人間は生きるために食べるべきであって、楽しむために食べてはならない。 菜食のほうが肉食よりも経済的である。


参考文献 『ガンディ 非暴力の道』(ジェラルド・ゴールド著 鮫島理子訳 平凡社 1984年) 『バープー物語 われらが師父、マハトマ・ガンジー』(ハリーバーウ・ウパッデャィ著 池田運 講談社出版サービスセンター 1998年) 『ガンディー 反近代の実験』(長崎暢子 岩波書店 1996年)


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