ジャッキー・ロビンソン

出典: Jinkawiki

ジャック・ルーズベルト・ロビンソン(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson, 1919年1月31日 - 1972年10月24日)は、アメリカ合衆国のプロ野球選手(内野手)。

1890年頃以降、有色人種排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。

一般に「黒人初のメジャーリーガー」と言われるが、これは厳密に言えばMLBが体制を整備し終えた1900年以降の「近代メジャーリーグ」を対象とした言い方である。アフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーは1884年にアメリカン・アソシエーションでプレーしたモーゼス・フリート・ウォーカーが最初とされている。

目次

経歴

生い立ち

1919年1月31日ジョージア州カイロで5人兄弟の末っ子として生まれる。祖父はアフリカから連れてこられた奴隷である。生後6カ月の頃に父が蒸発したため、カリフォルニア州パサデナへ移住した。母はメイドとして働いたが、週8ドルの収入では家族を養うことができなかったため、生活保護を受けた。 フランクリン・ルーズベルトの妻エレノアが推進する青年局でスポーツ指導者として働くことになる。しかし青年局の事業は第二次世界大戦が始まると閉鎖した。仕事を失ったロビンソンは、人種統合されたセミプロのフットボールチーム、ホノルル・べアーズへ入団し、平日は建設会社で働き、日曜はフットボールの生活を続けた。フットボールのシーズンが11月に終わり、1941年12月5日にカリフォルニアへ帰省した。

軍人として

アメリカが第二次世界大戦に参戦したことに伴い、ロビンソンは徴兵され、1942年5月にカンザス州フォートライリーで訓練を受けることになる。ロビンソンは射的の名手として評価され、知性やスポーツでの好成績、大学時代の教育など幹部候補生学校の候補として秀でていた。入学試験を受けたロビンソンや他の黒人たちは、試験に合格したこと以外何も知らされないまま3か月間待たされた。その頃にボクシング世界ヘビー級王者であるジョー・ルイスがライリー基地に移動してきた。ルイスは白人に発言力を持っており、ロビンソンがルイスに幹部候補生学校について相談すると、ルイスは政府の権力者に訴え、ロビンソンは幹部候補生学校入学を許可された。 1944年4月13日にロビンソンを含む数人の黒人将校が人種隔離の厳しいテキサス州フォートフッドへ配置転換された。テキサス州ではジム・クロウ法が強制されており、同年7月6日にバスで白人の運転手がロビンソンに対し、黒人用の座席へ移動を命じたが、陸軍ではバスの中での人種隔離を禁止しており、ロビンソンは移動を拒否した。運転手は憲兵を呼び、ロビンソンは詰め所へ連れていかれた。尋問が終わると、8月2日に軍法会議にかけられた。会議は結局9人の裁判官全員がロビンソンを無罪とした。ロビンソンは陸軍に除隊を申し出ると、ケンタッキー州のキャンプ・ブレッキンリッジへ転属され、1944年11月に名誉除隊となるまで黒人のスポーツチームのコーチを務めた。

ニグロリーグ

1945年にニグロリーグのカンザスシティ・モナークスに入団。トライアウトの結果、球団は月給300ドルを提示したが、ロビンソンは月給400ドルを要求し、この要求は受け入れられた。4月からモナークスでプレイしていたが、4月16日にロビンソンを含む3人の黒人選手はボストン・レッドソックスのトライアウトに参加。レッドソックスは彼らのプレイを評価したが、契約には至らなかった。 ロビンソンはチーム最高の打率.345を記録した。なお、ニグロリーグでは正確な記録が残っていないため、資料によっては打率.387ともされる。ニグロリーグのオールスターゲームに遊撃手として先発出場した。ニグロリーグでは収入を得るため練習よりも試合を少しでも多く行っており、モナークスはナイター設備が導入されていたため、昼夜試合をしていた。ホテルは黒人客を受け入れないため、選手はバスが食堂・寝室だった。大学時代に練習やスケジュールが統制されていたため、このニグロリーグの環境に適応できずにいた。

マイナー・リーグ

1945年にブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われる。リッキーは優秀な選手を欲していたが、その供給源としてニグロリーグの黒人選手に求めた。スカウトのジョージ・シスラーからロビンソンの推薦を受けたリッキーはその確認に行き、現地で評判を調べた。耳にした批判は、黒人への差別にはたちどころに抗議をすることだった。 リッキーがロビンソンに最も求めたことは「やり返さないだけのガッツを持ってほしい」だった。1945年8月23日に契約金3,500ドル、月給600ドルの契約でドジャースの傘下のAAA級モントリオール・ロイヤルズへ入団。その時にリッキーは「君はこれまで誰もやっていなかった困難な戦いを始めなければならない。その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持つんだ」とロビンソンに言い、右の頬を殴った。ロビンソンは「頬はもう一つあります。ご存じですか」と答えた。10月23日、ロビンソンがモントリオール・ロイヤルズへ入団したことを発表した。当時は遊撃手だったが、送球に難があるため一塁手にコンバートした。 1946年3月17日にアフリカ系アメリカ人として20世紀初の入場料を必要としたオープン戦に出場。オープン戦の期間中、ディープサウス地域では白人と黒人が一緒にプレイすることを禁止する条例があるところもあり、数試合を中止に追い込まれた。 1946年4月18日にインターナショナルリーグが開幕。ロビンソンは打席に立ち、黒人選手としてインターナショナルリーグでは57年ぶり、他の野球機構のマイナーリーグを含めても48年ぶりのことだった。この年、ロビンソンが記録した打率.349・113打点はリーグ1位で、打率は球団新記録となった。ロイヤルズはリーグ優勝を果たし、球団史上最多の80万人の観客を動員。プレイオフでも10月4日にロイヤルズの本拠地モントリオールで優勝し、ファンはこの勝利でロビンソンを抱きしめたり、肩に担ぎあげたりして他の選手と走りまわった。

メジャー・デビュー

1950年にはロビンソンの伝記映画「ジャッキー・ロビンソン物語」が公開された 1947年4月10日、ドジャースは「モントリオールのジャック・ルーズベルト・ロビンソンをメジャーに昇格させる。彼は直ちにチームに合流するだろう」と発表。開幕戦の4月15日に本拠地のエベッツ・フィールドには26,623人の観客のうち半数以上の14,000人はロビンソンを見ようとする黒人だった。そしてロビンソンはアフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーとしては1884年のモーゼス・フリート・ウォーカー以来63年ぶりにメジャーデビューを果たした。シーズン終了時にはチームメイト・監督・報道陣から受け入れられるようになった。9月23日にはエベッツ・フィールドでジャッキー・ロビンソンデーが開催された。シーズンでは一塁手として打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、同年より制定された新人王を受賞した。 1949年は自己最高の打率.342・37盗塁を記録し、首位打者と盗塁王を獲得。MVPに選出された。黒人選手としてロイ・キャンパネラ、ドン・ニューカム、ラリー・ドビーと共に初のオールスターゲームに出場を果たし、1954年まで6年連続でオールスターに出場した。また、1949年から6年連続で3割を達成している。

引退後

引退後、公民権運動に積極的に参加。チョックフル・オ・ナッツ(Chock full O'nuts)の副社長や全米黒人地位向上協会(NAACP)の自由基金運動の議長に就任。NAACPの創設者であるジョエル・E・スピンガーンが創設したスピンガンメダルを1956年に受賞している。 ロビンソンの背番号42は1972年にドジャースの永久欠番に制定され、1997年にはMLB全球団の永久欠番となった。 1962年には1939年のルー・ゲーリッグ以来となる有資格初年度で野球殿堂入りを果たす。 1972年10月15日、この年のワールドシリーズ第2戦が行われるオハイオ州シンシナティのリバーフロント・スタジアムにおいて、試合開始前に「黒人メジャーリーグ進出25年祭」が行われた。ロビンソンはレイチェル夫人と並んでダイヤモンドに立った。そして、ボウイ・クーンコミッショナーが歴代アメリカ合衆国大統領の中でも屈指の野球好きとして知られるリチャード・ニクソン大統領のメッセージを代読した。「彼こそは黒人最高の万能選手だった」と。髪はすっかりグレーに変わっていたロビンソンは始球式のボールをシンシナティ・レッズのジョニー・ベンチ捕手に投じ、これが彼の最後の雄姿となった。その9日後の24日、スタンフォードの自宅で死去。ロビンソンは亡くなる直前に自伝"I Never Had It Made"を書き上げた。

偉大な足跡

ロビンソンの死後、レイチェルは非営利財団「ジャッキー・ロビンソン財団」を創設。ロビンソンの活躍によりメジャーへの黒人選手受け入れを早める役割を果たし、ハンク・アーロンやウィリー・メイズ、サチェル・ペイジのメジャーデビューの足がかりとなった。MLBのみならず、人種差別問題そのものへ与えた影響も非常に大きい。カリーム・アブドゥル=ジャバー、アーサー・アッシュ、ジム・ブラウンといった他のスポーツの選手からも尊敬を集めている。 1987年にはMLBの新人王にあたるルーキー・オブ・ザ・イヤーに「ジャッキー・ロビンソン賞」という別名が付けられた。 ロビンソンのメジャーデビュー50年目にあたる1997年4月15日、ロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となった。同日、ドジャース対メッツ戦が行われたニューヨーク・メッツの本拠地シェイ・スタジアムで式典が行われた。ただし、マリアノ・リベラなど、それ以前から背番号42をつけていた選手に関しては特例として背番号42を継続使用することが許可された(2013年にリベラが引退したことに伴い背番号42の現役選手はゼロになった)。なお背番号を42にした理由について監督のレオ・ドローチャーは「42は生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えだから」と答えている。1999年には、メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームの二塁手部門にロビンソンが1位で選ばれた。 2004年4月15日にMLBはこの日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」と制定。2007年のロビンソン・デーでは、ケン・グリフィー・ジュニアのコミッショナーへの提案により、希望する選手全員が背番号42の付いたユニフォームを着用して試合に出場した。ドジャース、カージナルス、パイレーツ、フィリーズ、ブルワーズ、アストロズでは選手・監督・コーチ全員が背番号42を使用した。2009年のロビンソン・デーでは全ての選手、コーチ、監督、審判が42番のユニフォームを着て試合に出場した。 2013年4月12日、彼を題材とした伝記映画『42 〜世界を変えた男〜』が公開され、4月第2週(4月12~18日)の全米映画興行収入ランキングで初登場首位を飾り、野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てた。

黒人差別との闘い

実力は申し分なく、結果も残したロビンソン。しかし、それでも黒人選手であるが故の人種差別は長らく続いた。試合中の過激なプレーだけではなく、数人の白人選手はチームを去ったり、ファンから生卵を投げつけられたり、自宅の窓ガラスは何度も割られたそうだ。 さらに、メジャーリーグのオーナー会議ではドジャースを除く当時の全15球団が、ロビンソンがメジャーでプレーすることに反対、特にフィラデルフィア・フィリーズやセントルイス・カージナルスは、ロビンソンが出場するならドジャースとの対戦を拒否すると通告するなど、球界全体を巻き込む大騒動に発展した。 ロビンソンは、これらの差別行為に対して必死に耐えた。会長・リッキーとの「黒人選手がプレーした前例のない環境の中で、偉大なプレーヤーであり、かつ立派な紳士でなければならない、差別に対して仕返しをしない勇気を持つんだ」という入団時の約束の言葉を胸に刻み、どんなことも紳士的に対応し、成績を残すことで周囲を納得させていった。ロビンソンの人柄と実力が次第に認められ始めた。 チームメイトたちも、助けるために団結するようになる。一緒にプレーするうちに、黒人も同じ人間であると当たり前のことを知った。そして人種差別の壁を壊したのだった。 ロビンソンは現役を引退した後、1972年に交通事故でその波乱の生涯を閉じた。現在のメジャーリーグは様々な国籍、人種の選手たちが活躍している。それはロビンソンがメジャーリーグに渦巻く人種差別に対して、勇気と信念をもって立ち向かった事から始まったのは間違いない。 このようなロビンソンの功績に敬意を示して、ロビンソンが背負った背番号42をメジャーの全選手が身につけてプレーをしたり、偉業を讃える式典が催されたりする。また、1997年から、背番号42はメジャー全球団の永久欠番となっている。こうして差別と戦った偉大な選手を後世の選手やファンに伝え続けているのだ。

獲得タイトル・表彰・記録

ナショナルリーグMVP 1回:1949年

新人王:1947年

首位打者 1回:1949年

盗塁王 2回:1947年、1949年

MLBオールスターゲーム選出 6回:1949年 - 1954年

メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム選出:1999年

DHLホームタウン・ヒーローズ選出:2006年

参考文献

波部優子 『背番号42 メジャー・リーグの遺産』 文芸社、2009年。

藤澤文洋 『メジャーリーグ・スーパースター名鑑』 研究社、2003年。

『Wikipedia』[1]


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