バルフォア宣言 

出典: Jinkawiki

バルフォア宣言


概要

1917年11月2日、イギリス外相バルフォアが、第一次世界大戦に際してユダヤ人の支援を取り付けるため、戦後パレスチナにユダヤ人の国家を建設することに同意した宣言。これはユダヤ系イギリス人の銀行家でシオニスト連盟会長であるロスチャイルド卿(きょう)にあてた書簡のなかで表明された。(日本大百科全書ニッポニカ参照) トルコに対する作戦基地確保のためユダヤ人の協力を期待して発せられた。(百科事典マイペディア参照) 「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を樹立することを支持する」と明言した。英国がアラブ人の独立国家を支持した15年の「フサイン・マクマホン協定」、オスマン帝国が領有する中東地域を英仏ロ3国の勢力圏にするとした16年の「サイクス・ピコ協定」と合わせ、「三枚舌外交」と言われる。(朝日新聞参照)


問題点とその後の対応

1916年のサイクス=ピコ協定およびフサイン=マクマホン書簡は,パレスティナに関するかぎり,フランスおよびアラブの発言権を認め,イギリスの意図する単独支配を困難にした。イギリスは,17年,この困難を克服する役割を,イギリスの支配下でパレスティナをユダヤ国家にしようともくろむシオニスト組織に見いだした。イギリスは,シオニスト指導部にフランスを説得させたうえで,11月2日,バルフォア外相から英国シオニスト連盟会長ロスチャイルド卿あての書簡の形で〈パレスティナにユダヤ人の民族的郷土を設立する〉のに賛成した。(世界大百科事典 第二版参照) この宣言は、アラブ人に戦後の独立国家建設を約束したフサイン‐マクマホン協定(1915)、イギリス、フランス、ロシアの間で中東のトルコ領分割を取り決めたサイクス‐ピコ協定(1916)のいずれとも矛盾するものであった。同宣言に対しアメリカはただちに、18年にはフランス、イタリアも支持を表明した。(日本大百科全書ニッポニカ参照) この内容は,16年にフランス,ロシア,イギリス間で結ばれた秘密条約であるサイクス=ピコ協定とは明らかに矛盾するものであったが,イギリス政府のねらいはユダヤ人世論を連合国側にひきつけ,あわせてユダヤ人のパレスチナ入植を通じて中東政策の布石を固めることであった。同宣言は 20年のサン・レモ会議でイギリスの正式政策とされ,22年に国際連盟がパレスチナ地方をイギリスの委任統治領としたとき,その前文に同宣言が含められた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典参照)


参考文献

[コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A2%E5%AE%A3%E8%A8%80-117429]


ハンドルネーム:まろ


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