リンカーン

出典: Jinkawiki

 エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)はアメリカ合衆国における第16代大統領である。連邦制度の維持や、奴隷解放宣言の公布などによって指導力を発揮し、南北戦争による国家分裂の危機を乗り越えた。ワシントン、ジェファソンといった建国の父たちとともにアメリカ国民に最も愛されている大統領の一人である。

 

目次

誕生から南北戦争まで

 リンカーンは、1809年、ケンタッキーの農家に生まれる。7歳の時に家族とともにインディアナへ移住。家族から独立後は、雑貨商の店員をはじめとし、郵便局長、測量技師の助手などを経験している。  1832年には、先住アメリカ人と戦う義勇兵に志願し、続いて連邦陸軍に入隊した。同年、ホイッグ党から州議会に出馬したが落選。1834年、イリノイ州下院議員選挙に民主・ホイッグの連立候補として出馬し、初当選した。この間に法律の勉強をして弁護士となり、1837年、イリノイ州スプリングフィールドで法律事務所を開業した。1842年にメアリー・トッドと結婚し、4人の男子が生まれたが、うち3人は早世した。  1846年、イリノイ州の連邦下院議員としてホイッグ党から選出された。1855年上院議員に転出を試みたが失敗。翌年、共和党に転じ、1858年、イリノイ州共和党大会で連邦上院議員候補の指名を受けた。この大会でリンカーンは、半分が奴隷制で半分が自由労働制に依拠する政府は長く存続できないという、「分かれ争う家」として有名になった演説を行った。その後、北部民主党の大物候補だったスティーブン・A・ダグラスとの間で7回にわたって行われた奴隷制度をめぐる激しい論争は、選挙には失敗したもののリンカーンの名を高めるものとなった。リンカーンの基本姿勢は、奴隷制度には道徳的問題があり、これが西部へ拡大していくことには反対だが、既存の南部奴隷制度については干渉せず、封じ込めを目指すものであった。  1860年、共和党の大統領候補に指名されたリンカーンは、自由州の支持を得て、10月6日、第16代大統領に選出された。この当選を受けて12月21日、南部サウスカロライナ州の州議会が満場一致で連邦からの離脱を決定した。ミシシッピ、フロリダなどがこれに続き、翌年ジェファソン・デーヴィスを大統領とする「南部連合」が形成された。最終的には11州が連邦から離脱した。大統領に就任すべく、リンカーンがワシントン入りする際には、暗殺計画が噂されるほど、状況は緊迫していた。就任演説では、連邦統一を何よりも重視し、南部諸州の既存の奴隷制度には手をつける意図はないと述べた。  1861年4月、リンカーンは、サウスカロライナ州のチャールストン湾に孤立していた連邦の要塞を救援するために船隊を派遣した。これを契機に南軍が要塞を攻撃し、南北戦争の火蓋が切って落とされた。戦争がはじまると、北部では南部の奴隷制度の廃止を求める声が強まった。リンカーンの奴隷制度に関する考えは慎重なものであったが、南部の奴隷所有者に打撃を与え、ヨーロッパ諸国が南部連合を承認する動きを牽制するためにも、奴隷解放を宣言することは有効であった。


奴隷解放宣言

   1863年の奴隷解放宣言は「合衆国に対して反乱状態にある州や地域の奴隷は解放の対象になる」という戦術的な内容であったが、この後、戦争は連邦統一のためだけではなく、奴隷解放という正義のための戦争という意味も帯びるようになった。1863年11月、リンカーンは、激戦地ゲティスバーグに新しく建設される霊園において「人民の人民による人民のための政治」で名高い演説を行い、死者たちが残した目標を、生きている者たちが引き継いでいくことを訴えた。 1864年、大統領に再選。1865年4月、南部リー将軍が北部グラント将軍に降伏し、戦争は62万人の犠牲者を出して終結した。400万余りもの黒人たちが奴隷制度から解放された。

暗殺

1864年4月14日、フォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに狙撃され、翌日死亡。遺体は故郷イリノイ州スプリングフィールドへと鉄道で運ばれた。

参考文献

アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館


  人間科学大事典

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