レコンキスタ

出典: Jinkawiki

レコンキスタ レコンキスタ(国土回復運動)はイベリア半島の中世史の歴史である。スペイン、ポルトガルの社会・経済・文化に決定的な影響を及ぼし、ほかの西欧諸国とは異なる歴史的展開を方向付けた。スペインの歴史家サンチェス・アルボルノスは、「レコンキスタはスペイン史の鍵である。」この言葉はポルトガルにも当てはまる。ポルトガル王国そのものがレコンキスタの過程で生まれたのである。

対立と共存

 722年コバドンガの戦いに始まり、1492年のグラナダ解放によって完結するレコンキスタとは、異教徒によって不当に奪われたキリスト教徒の土地を回復する運動と説明されているが、初期のレコンキスタは、圧倒的なイスラム勢力を前にしてただただ生存のための抵抗運動だった。しかし、10世紀頃からアストゥリアス王国が次第に国家としての体裁を整え始めると、西ゴート王国の継承者であるという意識が強まり、サンティアゴ信仰に支えられ、新ゴート王国の建国による半島統一という考え方が支配的になっていく。しかしながら、12世紀、最終的に形成されたレオン・カスティリャ、ポルトガル、アラゴンが強化された国家体制の下に相互に対立しながら独自にレコンキスタを進めると、西ゴート王国再建という理念は現実的ではなくなり、外部から入ってきた十字軍精神に取って代わることになる。キリスト教側が優位に立つにつれて、それまで見られた寛容の精神は次第に影をひそめ戦闘的な宗教騎士団が前面に立って聖戦意識を強化していく。注目すべきことは、レコンキスタを支えたイデオロギーが何であれ、イスラム教徒の侵入と支配がそれまでの民族(ケルト人、ローマ人、ゲルマン人)の侵入のどれとも異なるかたちで進展したということである。半島に刻印したあらゆる影響にもかかわらず、モーロ人は人種的にも文化的にも先住民と全面的に融合することなく、8世紀の敵対・共存関係を妨げた。フランスの歴史家ピエールが述べているように、増加する人口を抱えた貧しい国々が必要に迫られて、聖戦意識がレコンキスタを間断のない植民運動としたのである。イベリア半島の中世社会は膨張の必要性とキリスト教信仰の上に築かれていたのである。  

 レコンキスタはキリスト教徒とイスラム教徒の対立的側面だけでは捉えきれない。両者は、8世紀に渡って不断に闘っていたわけではなく、そこには共存の時期が存在した。トレドのキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒によるサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会の曜日を変える共同使用はその共存の例として知られている。

まとめ

 レコンキスタは様々な分野に影響を及ぼした。まず、強大な敵に対抗するために王権が強化された相対的に貴族勢力が弱体化されるとともに、戦争が貴族だけの特権とはなりえなかったため、戦争に参加した平民階層による貴族社会への参入が可能となって、封建社会の全面的な展開は見られなかった。同時に、不安定な社会状況が長く続いたため、都市は発達せずブルジョア階級の形成を遅らせる結果となった。レコンキスタという軍事優先の社会では戦うことが最高の名誉とされ、そのメンタリティーはレコンキスタ終了後も大航海時代の海外進出、新大陸征服に受け継がれることになる。その一方で、商業は卑賤な生業とされ、肉体労働を蔑視する社会的雰囲気が醸成されていった。shuto

参考文献

「ポルトガル史 増補進版」彩流社 金七紀男

「図説 ポルトガルの歴史」 河出書房新社 金七紀男


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