出典: Jinkawiki

大阪府堺市の大阪湾に面する地域に、かつて外国人宣教師から「大いなる特権と自由を有し、共和国のごとき政治を行っている」とたたえられた「堺」という都市があった。  

堺は古代、中国や朝鮮の使節ん発着地だったといわれ、その後は漁港として発展してきたが、室町時代に勘合貿易が開始されると、貿易港として栄える。 やがて、他の都市を圧倒して勘合貿易の独占権を得、堺商人たちはみずから明・朝鮮・琉球・安南・ルソンなど海外に乗り出して大いに交易し、16世紀にはスペインやポルトガルと南蛮貿易を行った。こうして堺には富と人が集中し、空前の繁栄を見ることになる。境の商人たちは、このような威勢と財力を背景に、この港町の周囲に深い堀をほり、頑強な木戸をもうけ、浪人者多数を傭兵として雇い入れ、自治を行い始めました。

町の行政・司法は、会合衆と呼ばれる36人の豪商によって協議運営され、守護大名の介入を排除した治外法権的な都市を完成させた。したがって境に武装して入場することは許されず、一歩町のなかに入れば敵味方の区別も消失したという。このように治安が安定していたので、多くの芸術家が境を訪れ、茶の湯・花道・和歌・連歌・小唄などの文化が花開き、まるで都のごときの華やかさだったと伝えられている。

戦国時代に来日した宣教師ビレイラは、堺を知ってまるでベニスのような自由都市であると驚嘆している。

けれどもこうした繁栄は、1568年、織田信長が入洛するにあたり、境に2万貫という大金の上納を強制してきたことで終焉を迎える。はじめ会合衆たちは信長に抵抗を試みるが、結局強大な武力の前に服従を決め、上納金を支払い信長の要求どおり堀を埋めた。

その後、堺は信長の直轄地となり、豊臣秀吉の時代、堺証人は無理やり大阪城下に移住させられ、この自由都市は解体させられてしまったのである。


参考文献

・日本史B用語集(山川出版社)

・早わかり日本史(日本実業出版社)


  人間科学大事典

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