大化の改新

出典: Jinkawiki

 聖徳太子の死後、蘇我氏の権力は、ますます強くなり、横暴の限りをつくすようになった。蘇我馬子の息子である蘇我蝦夷とその息子の入鹿は、さらなる権力の拡大のため、自分の親近者を天皇にしようと考えた。聖徳太子の息子の山背大兄王は、皇位継承のライバルとなる邪魔な存在。入鹿は山背大兄王に謀反の罪をかぶせ、自殺に追い込む。

 蘇我氏のあまりの傍若無人ぶりに、「このままではいけない!」と考えたのが、舒明天皇の息子である中大兄皇子と中級豪族の中臣(のちの藤原)鎌足であった。645年、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で殺害し、翌日に蘇我蝦夷の屋敷を襲った。蝦夷は自殺し、クーデターは成功した。同じ年、中大兄皇子らを中心に新しい政府がつくられた。翌年に発表された政府の基本政策である改心の詔などの一連の政治改革が大化の改新である。しかし、最近では、大化の改新はなかったのではないかという説が有力である。「改心の詔」があまりにもうまくできすぎている上に、第二条に当時は、まだ使われていなかった「郡」という字が使用されているからだ。

 中大兄皇子は大化の改新の後、皇太子として政治改革を続けたが、大化の改新から23年後の668年についに即位し、天智天皇となった。そのうち、天智天皇の後継者をめぐって争いが起こった。当時、次の天皇は天智天皇の弟である大海人皇子であると目されていた。「天皇に息子がいれば、息子が皇位を継ぐ」という父子相続のルールがなかった。ところが天智天皇は、自分の子供の大友皇子に皇位を譲りたいと考えた。身の危険を感じた大海人皇子は、都を離れて出家する。「虎に翼をつけて野に放ったようなもの」世間は大海人皇子の出家をそう評した。

 671年に天智天皇が亡くなると、それまでの独裁政治に対する不満が噴出した。それを見た大海人皇子は、朝廷に不満を持つ豪族とともに挙兵。1ヶ月に及ぶ内乱は、大海人皇子の勝利に終わり、大友皇子は自殺する(壬申の乱)。壬申の乱の後、大海人皇子は即位して天武天皇となった。自分の力で政権を勝ち取った天武天皇には豪族たちも逆らえず、天皇の力は一気に強まった。


 参考文献:「らくらく入門塾 日本史講義」 小和田哲男 ナツメ社 ・ 「人物で分かる日本の歴史」 数学研究社


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