太平洋戦争2

出典: Jinkawiki

目次

南進政策

日本はアメリカからの日中戦争の中止勧告を再三無視し続けた結果、アメリカからの物資、鉄や石油などの戦争において最も重要な物資を止められてしまった。そこで日本は物資を求めてシンガポールへの進攻を開始した。それが南進政策である。しかし、その行動も失敗に終わり、日本の国際社会からの孤立がさらにお深まってしまった。東亜共栄圏は実現しなかった。


教育

学校では毎朝国旗を掲げて、法案伝を拝み、誓詞をとなえるようになった。小学校は国民学校となり、勉強や体操なども前より厳しくなった。さらに青年少年団ができ、団体訓練も行われるようになった。学校には農場があり、生徒は働かされて、天皇を敬う生活を送った。戦争期に入って教育の現場は変わった。教科の教育と学校行事が巧みに組み合わされて「皇民化」教育が行われた。


沖縄戦

日本とアメリカの戦争のさなか、唯一起きた地上戦である。沖縄戦での戦没者の数は、約15万人以上いる。しかしそれは、すべてがアメリカ人によって殺されたわけではない。日本軍は戦況が不利になっていくと沖縄の南部に移動していった。しかし南部には沖縄人の避難者がいた。軍は沖縄人をがまから追い出したり、沖縄方言を喋ったらスパイと判断され殺されたりした。沖縄戦にいおる死因の原因は、ほとんど日本軍によるものであった。


その後

1945年8月15日正午、昭和天皇はラジオで全国民に向け敗戦を告げ、真珠湾攻撃から4年にわたる長き戦争が終わりを告げた。そして、1945年10月。東京にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が設置されると、最高司令官のマッカーサー元帥は日本の弱体化、民主化を図り、数々の政策を実施していった。財閥解体や農地改革、普通選挙においての女性の議員立候補などが行われた。


参考文献

著 阿部猛 「太平洋戦争と歴史学」

著 林博史 「沖縄戦強制された「集団自決」」

H・N KY


  人間科学大事典

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