対馬丸

出典: Jinkawiki

対馬丸は総トン数6754t、長さ135.64メートルの貨物船、。
1944年8月22日、疎開輸送中のところをアメリカ海軍潜水艦・ボーフィン号の魚雷を受け沈没。
乗船者数1788名(資料館調べ、保有会社であった日本郵船のデータでは1661名)うち犠牲者は乗客乗員合わせて1476名(資料館発表、氏名判明者のみ)。

概要

1944年7月19日 県庁から県下の市町村長、並びに学校長へ「疎開希望者の数を報告せよ」との通達が下る。学童疎開の主な目的は「将来のため、少国民の犠牲を避ける」「県内食糧事情の調節」の二つであった。

8月21日に対馬丸、和浦丸、暁空丸の三隻が疎開者を乗せ、那覇港を出発。「疎開船には軍艦を使ってほしい」という要望が出たが叶わず、代わりに護衛として砲艦「宇治」駆逐艦「蓮」がそれぞれ前後についていた。

もともと貨物船であったため、疎開者たちは船艙に作られた蚕棚で寝起きしていた。

船足が遅いために、他船から遅れて1隻で航海していた対馬丸は、ジグザグコースをとるか、危険だがそのまま直進するかで意見が分かれていた。西沢武雄船長はこの航路の危険性を熟知していたため前者を主張したが、少尉はさらなる遅れを危惧し、直線での航行を主張し、軍命令として直線コースをとることとなった。学童には救命胴衣をつけさせ万が一に備えることとした。

8月22日の午後10時23分、魚雷攻撃を受けて対馬丸沈没。魚雷を発射したボーフィン号の艦長は対馬丸を疎開船だと知らず、「貨客船一隻撃沈」とだけ報告した。

護衛艦は攻撃の爆雷を投じれば遭難者を傷つける恐れがあり、また遭難者救助の最中に他二隻が狙われ全滅する恐れもあったため何もできずその場を去った。

事件翌日に連絡を受け、鹿児島県山川港から数隻の漁船が救助に出、偵察機も飛び、沖縄からも救助船が出た。

救助された者たちは、しばらくして沖縄へ送り返されたが事件のことを口外することは固く禁じられていた。


参照元

大城立裕原作 『対馬丸 さようなら沖縄』アニメ絵本 理論社、1982年
Wikipedia


    HN:M.Y


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