尊王攘夷

出典: Jinkawiki

尊王攘夷(そんのうじょうい、尊攘)とは、天皇を尊び、外圧・外敵・外国などの夷狄(いてき)を排斥しようとする思想である。簡単に言うと、「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意味である。天皇尊崇思想である「尊王論」と、外国人排斥思想である「攘夷論」とが、幕藩体制の動揺と外国勢力の圧迫という危機に統合して大きな潮流を形勢し、幕末長州藩の下級武士を中心に尊皇攘夷運動という政治運動として激化した。もともと別個の思想であったが、幕末期、幕藩体制の矛盾と諸外国の圧迫による危機感の中で両者は結びつき、朱子学の系統を引く水戸学などに現れ、次第に討幕運動へと展開した。この思想は、王政復古に至る幕末政治運動の指導的役割をになった。

もともと「尊王」と「攘夷」は全く異なる言葉であるため、2つの意味を示しておく。


尊王論

尊王論とは、王者(日本では天皇になる)を尊ぶ思想であり、古代以来の宗教的権威の天皇尊崇思想である。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。『古事記』・『日本書紀』が日本という国家の根拠を示したことに基づいて、日本国の存在の根拠を天皇(神)に依ろう、とする考え方を示す。


攘夷論

攘夷論とは、日本では江戸時代末期に広まった考え方であり、鎖国を支える外国人排斥思想である。元は中国の春秋時代の言葉だそうだ。幕府の開国容認に際して、反幕運動と化した。

日本では、200年余り続いた江戸の世の中では、外国のどこかへ行って物を取ってこよう、外国のどこかが日本に来て何かを持って行ってしまうかもしれない、という発想や実感はなかった。ところが大航海時代以降世界に進出、支配領域を拡大した欧州、続く帝国主義の波に乗った米国によるアフリカ・アジア進出・侵略・植民地化は、東アジア各国にとっても脅威となった。日本では、北海道でゴローウニン事件、九州でフェートン号事件といった例などの摩擦が起こり始めた。また、1792年には根室、1824年には水戸へ外国船が上陸をしていた。長い鎖国状態だった日本に対外危機意識は薄く、また政治不安も重なり、国情を統制する必要があった。これらに対応するために、外来者を追い払って(これまでの)平和を維持するという「攘夷」の発想・考え方が広まった。


尊王攘夷の内容

尊王攘夷は、江戸時代末期に展開された反幕府運動を示す。この思想的基盤となったのは、藤田東湖や会沢安(正志斎)らが唱えた水戸学である。初めて「尊皇攘夷」という言葉が使われたのは、藤田東湖の著した「弘道館記」(天保九年、1838年)と記されている。

1854年、幕府は日米和親条約の締結を余儀なくされ、その批准を朝廷に求めた。海外事情にうとい朝廷は、攘夷論の拠点であった水戸藩の働きかけもあって勅許を与えなかった。朝廷は鎖国を支持し攘夷の意向を示したので幕府は窮したが、はなはだしく貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士層は、夷狄(いてき)として排斥すべき西洋諸国の圧力に屈して、幕府が国交を開くのをみて憤激した。同5年頃から将軍継嗣問題で紛糾していた幕府は、井伊直弼が大老に就任した。

この思想が変化を遂げるきっかけとなったのは、1858年の日米修好通商条約調印である。これにより外国との貿易が行われるようになったが、余りにも不平等なその内容に国勢は悪化の一途を辿った。この調印に先立ち天皇の勅許を得る必要があったのだが、天皇は最後まで調印を認めなかった。しかし、井伊にとっては「国体を汚す」ことを畏れるのがその真意であったため、幕府の側では調印を拒否して侵略の憂き目をみるよりは、と勅許を得ずに調印を断行したのである。批判者に対しては、安政の大獄により弾圧を加えた。

民衆の立場にしてみれば、幕府が勝手に調印したために、生活が更に苦しくなったのである。外国貿易に伴う物価騰貴によって生活がさらに圧迫された下級武士層は、以後朝廷の尊攘派公家と結んで活溌な攘夷運動を展開していく。諸藩でも、初め水戸藩、次いで長州藩が藩論として尊攘を掲げ、尊皇攘夷運動が井伊専制反対運動として展開し始めた。井伊暗殺後、幕政は積極的に朝廷権威と結びつこうとする公武合体策に転換し、一方雄藩大名の間からも幕政改革を目指した公武合体運動が生まれてくると、尊王攘夷は何れの勢力にとっても政治的スローガンとなった。打毀しや百姓一揆などが激化し、外国勢力の圧力が強まる中で特に下級武士層の間に危機意識が深まり、尊皇攘夷運動は妥協的な公武合体運動に対立してテロ行為を含む過激な朝廷権力の復活運動として展開された。

幕府打倒を目指す武力蜂起計画が生まれる段階にはいると、薩摩藩を中心とする公武合体派は、文久3年8月18日の政変で朝廷を掌握し、尊攘派を京都から追放した。大義名分を失った尊攘派は十津川の変、生野の変、蛤御門の変といずれも失敗した。また、薩英戦争、鹿児島・下関における四国艦隊下関砲撃事件を通じて攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で、攘夷運動は急速に衰退した。これらの事件で近代的軍事力の威力を知った従来の公武合体派や、尊攘派の内部から次第に積極的開国による富国強兵を目指す新しい反幕府勢力が生まれ、薩長同盟が結ばれて反幕府運動は倒幕運動として新たに展開した。


参考文献:詳説日本史B(山川出版社)、地図・資料・年表「新詳日本史」(浜島書店)、広辞苑、ウィキペディア

http://note.masm.jp/%C2%BA%B9%C4%DA%B7%B0%D0/

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/5921/bakumatu/sonjyou.html


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