延暦寺焼き打ち
出典: Jinkawiki
1571年に、信長が浅井・朝倉氏と結んで敵対する延暦寺をやきはらい、古代寺社勢力の最大拠点に大打撃を与えた。 9月12日、早朝のうちに信長軍は近江坂本に移動し、入るやすぐに町に火を放った。延暦寺の支配下にあったためである。そして坂本を焼く火を尻目に、延暦寺目指して山を登った。寺の僧俗たちが驚く間もなく、山に登った兵たちは彼らに襲いかかった。女性や子供でも容赦なく斬られ、伝統ある建物にも次々と火が放たれた。最澄が開いてより700年、聖地と崇められてきた比叡山に地獄絵図が展開されたのである。ここで殺された者の数は3000余りとされているが、文献によって数が違うので正確にはわからないが、少なくとも1000人は下らなかったようだ。ただ信長の部将の中にも焼き討ちには批判的な者もいた。木下秀吉の部署ではあまり殺戮は行われず、そのため難を逃れた僧俗や重宝が多かったようだしあったようだ。 まだ放火が続いている13日に、信長は馬廻衆だけつれて京に入った。そして何事もなかったかのごとく公家たちの訪礼を受けている。天皇からも抗議はなかったようだ。18日、京を出発して岐阜へ向かう。年末まで本拠を動かなかったようだ。そして没収した領地は明智、佐久間、柴田、中川ら南近江に配置した部将に分け与えられた。部将たちはその領地を基礎にしながら、近江の国衆たちを与力として配下に置くという近江の支配体制がここに整うのである。
参考文献 ・「日本史B用語集」 全国歴史教育研究協議会 ・http://www.geocities.co.jp/Bookend-Hemingway/7858/rekisi35.html