浅井長政

出典: Jinkawiki

浅井長政


浅井長政

 浅井長政は三代目浅井家当主。織田信長の義兄弟であり、妻は信長の妹であるお市の方。  父親の隠居後、15歳という若さで家督を継いだ。  村の祭りを行うため社殿の修築や寄付を行ったり、村人たちの争い事では裁判を執り行うなどの善政で知られる。  信長とは同盟関係であったが、信長が長政との条約を破って同盟である越前の朝倉氏に攻撃を始めたため長政は信長との同盟を破棄し、金ヶ崎にて朝倉義景とともに信長に奇襲を仕掛けるが失敗する。  その後、姉川の合戦でも織田・徳川連合軍の前に長政は敗戦し居城である小谷城に撤退する。  しかし、長政は近江の村人や寺院、比叡山延暦寺などと協力し信長包囲網を形成し信長への反撃を試みる。  しかし、肝心の長政は天皇・将軍の連盟で信長との休戦命令を受け、やむなく撤退する。  その後、信長は延暦寺の焼き討ちなど時間をかけて包囲網を突き崩していく。  1573年9月に小谷城を責められ自刃する。


浅井長政の最期

 元亀元年(1570)6月の姉川の合戦で織田信長・徳川家康連合軍は浅井長政・朝倉義景連合軍を破り、朝倉軍は越前国に敗走、朝倉軍は小谷城に籠城することになった。  天正元年(1573)8月初旬、織田信長は出撃命令を出した。  この日の夜半、三千の兵を率いる羽柴隊がまず京極丸に攻め落とし、隠居の前当主・久政の籠る小丸と長政の本丸間を分断した。そして小丸の攻撃に移り、28日には久政を自刃に追い込んだ。  この時秀吉は信長の妹であり、長政の妻となっていたお市の方とその三人の娘を救うために開城降伏の勧告を行ったが、長政はこれを拒否。しかしお市の方と娘たちは織田勢に送り届けられた。嫡男の万福丸には家臣をつけて密かに脱出させた。  同じく28日より、長政のいる本丸にも総攻撃が行われた。長政は五百の手勢で防戦し、柴田勝家や秀吉も攻めあぐねるほどだったが、ついには織田勢の猛攻の前に屈し、9月1日に覚悟を決めて自刃した。  戦後、信長は浅井久政・長政親子の首を京で獄門にかけ、密かに逃れていた長政の嫡男・万福丸も探し出して磔刑に処した。さらに久政・長政・朝倉義景の首を薄濃(はくだみ。肉を削いで頭蓋骨に漆を塗り、その上に金粉を塗ったもの。)にし、翌天正二年(1574)の正月の宴会において、それに酒をついで諸将に飲ませた。

参考文献

浅井長政-日本の歴史[1] 小谷城の戦い[2] HN.Match


  人間科学大事典

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