浪士隊結成

出典: Jinkawiki

浪士隊結成 概要 文久2年12月、幕府は傭兵部隊とも言うべき浪士隊の募集を開始した。この傭兵部隊の構想は、出羽庄内出身の志士清河八郎の発案を松平上総介が幕府政治総裁の松平春獄持ち込んだもので、春獄の許可で実施されることになった。しかし、清河は浪士隊は幕府のためではなく、尊王倒幕の兵にしようという陰謀があり、浪士隊は当初から分裂の危機をもっていたのである。 浪士隊結成 浪士隊を尊王倒幕の兵としての構想をいだく清河は、出来る限り多くの人数を集めようと素性の怪しいものでも、かまわず浪士隊に参加させた。その結果、近藤勇らのちに新撰組の主力となる真っ当な浪士たち以外に、素性のわからない浪士を含めて浪士隊は250人を超える数に膨れ上がったのである。幕府が予定していたのは、50人規模の定員であり、予算も1人あたり50両として計算されているだけであった。しかし、すでに幕府の命令で募集した浪士隊を解散させるわけにもいかず、鵜殿鳩翁を浪人取り扱いに任命し、山岡鉄太郎、松岡万の2名を取り締まりとして、浪士隊を発足させることになるのである。小石川 伝通院で開かれた、浪士隊の初会合で1人当たり5両に引き下げられた資金を渡し、234人の幕府傭兵部隊が正式に旗揚げすることになるのである。 清河八郎の陰謀 2月4日に結成された浪士隊は、早くも8日には京都に向かって江戸をたった。これは近く将軍家茂が上洛する予定があり、その警護のためという名目だったが、この急な今日と派遣の裏には、250人もの得体の知れない連中を江戸に置いておくことへの不安もあっただろう。ともあれ、2週間後の2月23日、一向は京都に到着し、宿となった壬生の新徳寺へ入った。その夜、清河八郎が尊皇攘夷の先鋒として、朝廷のために一身を呈するべきだという爆弾発言をする。この発言によって、浪士隊は2つに分裂することになる。江戸へ戻った浪士隊は、新徴組と名を変え、江戸の取締りを任務として幕府滅亡まで尊王討幕運動を弾圧することとなる。一方で京都に残ったものは、新撰組となっていくのである。当初の清河八郎は、江戸へ戻って、4月13日佐々木唯三郎によって赤羽橋で暗殺される。反幕府の立場を明らかにした清河を暗殺することは、幕府側からすれば当然のことであっただろう。 参考文献 幕末維新ガイド      まるわかり日本史


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成