湯川秀樹

出典: Jinkawiki

出身・経歴

理論物理学者。地質学者小川琢治の三男として東京に生まれる。1929年(昭和4)京都帝国大学理学部を卒業、33年大阪帝国大学助教授ののち、40年京都帝国大学教授となった。一時、東京帝国大学、アメリカのプリンストン高等研究所、コロンビア大学などの教授を兼ねたが、53年(昭和28)以降定年退官まで京都大学基礎物理学研究所所長の職にあった。

1932年チャドウィックによって中性子が発見され、原子核が陽子と中性子とからなることが明らかになったが、それとともに、陽子・中性子を互いに結び付けている力が何であるかが大きな問題になった。一方、原子核のβ崩壊の研究から、当時未知のニュートリノの存在を仮定することが必要になってきていた。

行ったこと

湯川は、荷電粒子間に働く力を電磁場が媒介するとの類推から、陽子・中性子を結び付ける未知の力の場があるとした。これに場の量子論を適用すると、場に伴うある種の粒子があることになり、力の有効距離の大きさから、その質量は陽子と電子の質量の中間と推定された。そのため、この粒子を中間子、その場を中間子場とよんだ。また、この中間子が電子とニュートリノとに崩壊するとして、原子核のβ崩壊をも統一的に説明する可能性を与えた。原子核のなかで陽子・中性子を結び付ける力とβ崩壊のメカニズムの詳細についてはもっと複雑であることが現在ではわかっているが、湯川の理論は、現在の素粒子論で典型的に使われる考え方を初めて導入したもので、物理学に一つの大きな流れを生じる糸口となり、それを契機として、素粒子論とよばれる大きな領域が発展した。

この研究によって、1940年に学士院恩賜賞を、49年にわが国最初のノーベル物理学賞を受けた。このことが、第二次世界大戦後の苦難にあえいでいた国民一般に与えた精神的影響の大きさは計り知れない。とくに学問分野においては、若い研究者に自信と激励を与え、その後の日本の科学の発展の大きな支えとなった。

戦後すぐに彼が創刊した欧文専門誌『Progress of Theoretical Physics』は世界の学界において高い評価を受けている。また、東洋思想に造詣(ぞうけい)が深く、優れた洞察に裏づけられた批判的精神をもって、近代科学の独自の発展を志向し、素粒子論のみならず、宇宙科学、生命科学などの発展にも大きな影響を与えた。

素粒子論においては、現在もっとも高度の理論である場の量子論が基礎としている時間空間概念がきわめて素朴なものにすぎない点を改良することによって素粒子の統一理論を達成することを試み、その立場から、いままで考えられている場が時間空間の一点だけの関数であることを改良した非局所場の理論、時間空間の領域は無限に分割できるのではなく、分割不能な基本領域があるとする素領域の理論などを提唱した。

世界平和に対する努力

世界平和をめぐる運動には長期にわたって献身的な努力を傾けた。1955年にラッセルとアインシュタインが核兵器に反対して有名な宣言を発表した際、他の多くのノーベル賞受賞者とともにその宣言に連署し、またこの宣言を契機として生まれたパグウォッシュ会議には、第1回(1957)以来、何回か参加して、世界の科学者の平和運動の中心人物の一人となった。世界平和アピール七人委員会の結成、科学者京都会議の開催、世界連邦建設運動などに、死の直前まで力を注ぎ、世界平和の達成、核兵器の廃絶に努力した。


参考文献

1、大阪大学湯川記念室  http://ocw.osaka-u.ac.jp/schools.php?sname=Yukawa%20Memorial&cname=&contype=&lang=_ja

2、科学系ノーベル賞日本人受賞者 9人の偉業  http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/tour/nobel/index.html

3、ウィキペディア百科事典  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

4、日本史小辞典  山川出版社


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