長篠の合戦

出典: Jinkawiki

概要

   1575年6月29日、三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との間で行われた戦い。


合戦の経緯

 天正元年(1573)に武田信玄が亡くなった後、家督を継いだ武田勝頼は、三河国長篠城を徳川家康から奪還すべく、天正三年五月に出陣する。長篠城は信濃と三河を結ぶ交通の要所であったが、信玄の没後、徳川家康に奪われていた。武田軍は一万前後(と言われている)の軍勢であったが、勝頼は武田の騎馬隊など精鋭を率いて家康軍に臨んだ。一方、家康は同盟関係にあった織田信長に援軍を要請。信長もそれに応え数万の大群を率いて三河国設楽原に武田軍と対峙した。武田軍は騎馬隊による突撃を繰り返すが、織田・徳川連合軍は、鉄砲を前面に押し出しことごとくこれを撃破した。また、連合軍は、設楽原の連吾川沿いに馬防柵二十余町(およそ500メートル)を築き武田軍を苦しめた。武田軍は、馬場信房、山県昌景、真田信綱などの重臣・名将を失い壊滅的な打撃を受け大敗した。これにより勝頼は家臣の信頼を失い、武田家は滅亡の道を歩み始めることとなる。


合戦の特徴

 この長篠の合戦は、鉄砲が始めて組織的、戦術的に使用され、大きな戦果を上げたことでも両機とされる合戦である。特に、3000挺(1000挺という説もある)の鉄砲を1000挺ずつ3列に配置し順番に放つという戦法は、信長の奇抜さを語る上でも常に語られてきたことだった。ところが近年、この戦法は、江戸時代初期に活躍した小瀬甫庵という作家が『信長記』の中で語ったフィクションであるという説が出されている。また、効果的な鉄砲の使用方法も、宣教師によってヨーロッパの戦術が伝えられたのではないかという説や、本願寺や根来・雑賀衆の戦術を真似たなどの説も出され、信長の独創性という点に関してもその真偽が問われている。いずれにしても、この合戦以降、鉄砲の評価は高まり、戦略や戦闘スタイルを一変させたのは確かであろう。




  • 参考

『図解雑学 戦国史』(2005)ナツメ社

『[図解]戦国武将おもしろ事典』(2000)三笠書房


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