ローザパークス事件

出典: Jinkawiki

背景

当時、アメリカ南部諸州にはジム・クロウ法と呼ばれる人種分離法が施行され、公共交通機関を除く日常生活のあらゆるところで、黒人と白人は隔離されていた。制度上、バス・レストランなど公共の場所で人種隔離が実施され、また黒人の投票権も事実上制限されていた。深南部と呼ばれるアラバマ州も、その事情は同じだった。


概要

1955年12月1日午後6時ごろ、42歳のローザ・パークスは百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。バス内は白人席と黒人席に分けられ、中間の席には白人がいない時は黒人も座ってよいことになっていた。黒人席が一杯だったので、ローザが中間席に座っていると、白人が乗って来始め、立つ者も出てきた。このため運転手ジェイムズ・ブレイクが中間席に座っている黒人に立つよう命じる。座っていた黒人四名中三名は席を空けたが、ローザは立たなかった。運転手ブレイクがローザのところにやって来て「何故立たない?」と詰問し、席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否。

1987年のテレビ番組でローザは、「着席したままだった私に気付いたブレイクが何故立たないかと訊ね、「立ちません」と答えました。するとブレイクは「よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ」と言ったので私は「どうぞ、そうなさい」と答えたんです」と、述懐している。


ローザ逮捕の知らせが伝わると、マーティン・ルーサー・キングやラルフ・アバナシー牧師らが抗議運動に立ち上がり、モンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけた。当時貧しい黒人にとってバスは必須の交通機関で、利用者の75パーセント以上を占めていた黒人たちがバスを利用せず、黒人の車に同乗したり、どこへ行くにも歩いたりしたため、バス路線を運営するモンゴメリー市は経済的に大きな打撃を被った。

ローザ側は市条例違反の判決に対し、バス車内の人種分離の条例が違憲であるとして控訴、1956年に連邦最高裁判所は違憲判決を出し、公共交通機関における人種差別を禁止することになる。

ボイコット運動は381日間続き最高裁の違憲判決の翌日に終熄。キング牧師はこの運動に勝利を契機として、全米各地での公民権運動を指導、非暴力直接行動と市民的不服従をかかげ、1963年8月28日、ワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催。アメリカの黒人運動は最高潮に達し、1964年の公民権法成立につながった。

参考文献:ローザパークス 著 『ローザパークス自伝』      ローザパークス 著 『ローザパークスの青春対話』


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