ミヒャエル・エンデ

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 +'''ミヒャエル・エンデ'''(Michael Ende)1929年11月12日、南ドイツ・ガルミッシュ・パルテンキルヒェン生まれ。小説家。43歳頃から創作を始め、俳優学校卒業後、本格的作家活動に入り、1960年の子供向けの小説『ジム・ボタンの冒険物語』で最初の成功を収めた。1985年に『はてしない物語』の翻訳者、佐藤真理子さんと結婚した。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。主な作品に、小説『モモ』、戯曲『ゴッゴローリ伝説』、歌詞集『夢のボロ市』などがある。1995年8月28日午後7時10分、ドイツのシュツットガルトの病院で死去、65歳。
 +== エンデの生い立ち ==
 +ミヒャエル・エンデは1929年11月12日南ドイツ、バイエルン州の山間にある街ガルミッシュで生まれた。彼の父親エトガー・カール・アルフォンス・エンデは画家だった。シュルレアリスム的な独自の画風を持っていたエトガーは、素描やエッチングなどの作品を数多く描いたが、残念ながら高い評価を得ることができず、生活は常に苦しかったそうだ。その上、彼の作品の多くは第二次世界大戦中の空襲により、多くの作品が焼失してしまった。そうした苦しい生活を支えていたのは、彼の母親ルイーゼであった。彼女は、真面目で地味な父親に比べ、明るく活発な性格で、家庭を明るくするだけでなくマッサージなどの資格を取得して家計をも支える大黒柱的存在だった。こうした両親の元、彼は母親のポジティブな生き方と父親の芸術性を上手く受け継ぎながら成長していった。彼が一人息子だったこともあり、父親は教育については非常に熱心で、特に父親自身が大きな影響を受けていたドイツが生んだ偉大な思想家ルドルフ・シュタイナーの影響を彼に強く残した。
-== ミヒャエル・エンデとシュタイナー教育 == 
 +== ミヒャエル・エンデとシュタイナー教育 ==
エンデとシュタイナーとの出会いは、彼が17歳の時にさかのぼる。それまで通ったギムナジウムから、知人の紹介でエンデが転校した先がシュタイナー学校であった。詳細は年譜の項に述べるが、エンデは12歳で一度落第も経験しており、いわゆる問題児であったという。学校に対する強い反感も枷となって、転校後もシュタイナー学校の教育方針にすんなりとけこんだ訳ではなかったらしい。が、シュタイナー学校の自由な校風は、エンデにそれなりの開眼をもたらした。「何か本当の勉強ってものをやりたい意欲が湧いてきた。そのためにはあせって先へ進むよりも、じっくり時間をかけて学びたい」。自発的に学ぶことの楽しさを初めて知り得た当時のエンデが、両親に宛てた若やいだ手紙が遺されている(「シュタイナー再発見の旅」子安美知子著)。 エンデとシュタイナーとの出会いは、彼が17歳の時にさかのぼる。それまで通ったギムナジウムから、知人の紹介でエンデが転校した先がシュタイナー学校であった。詳細は年譜の項に述べるが、エンデは12歳で一度落第も経験しており、いわゆる問題児であったという。学校に対する強い反感も枷となって、転校後もシュタイナー学校の教育方針にすんなりとけこんだ訳ではなかったらしい。が、シュタイナー学校の自由な校風は、エンデにそれなりの開眼をもたらした。「何か本当の勉強ってものをやりたい意欲が湧いてきた。そのためにはあせって先へ進むよりも、じっくり時間をかけて学びたい」。自発的に学ぶことの楽しさを初めて知り得た当時のエンデが、両親に宛てた若やいだ手紙が遺されている(「シュタイナー再発見の旅」子安美知子著)。
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影響については、実はさほど重要視しておらず、異文化ショックのような「ものめずらしさ」程度であったと述懐している(「エンデと語る」子安美知子著)。シュタイナー学校が日本で紹介される折にあたっては、一時的にせよエンデがシュタイナー教育の申し子であるような過剰な報道がなされたこともあったらしい。かと言って、エンデが作家として大成したのはシュタイナー教育の賜物だ、などと原因づけ 影響については、実はさほど重要視しておらず、異文化ショックのような「ものめずらしさ」程度であったと述懐している(「エンデと語る」子安美知子著)。シュタイナー学校が日本で紹介される折にあたっては、一時的にせよエンデがシュタイナー教育の申し子であるような過剰な報道がなされたこともあったらしい。かと言って、エンデが作家として大成したのはシュタイナー教育の賜物だ、などと原因づけ
るのはあたらない。子安氏がその著作で指摘するように、エンデ文学とシュタイナー教育を直結することは、早計にすぎると思われる。 るのはあたらない。子安氏がその著作で指摘するように、エンデ文学とシュタイナー教育を直結することは、早計にすぎると思われる。
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 +== ミヒャエル・エンデとシュタイナー思想 ==
 +シュタイナーの思想については、エンデ本人は、精神のありかたという最も重要な部分においてはシュタイナーの理念によるところが大きいことを認めている。しかし、彼自身がシュタイナー人智学の信望者(アントロポゾーフ)であったかどうかという事については、エンデは明言を避けている。
 +これはおそらく、シュタイナー思想そのものが当時、多くの可能性を秘めて広がり始めた時期でもあったために、信望者の中にもさまざまな幅が生じていたのが一因
 +でもあったろうと思われる。エンデをアントロポゾーフの最大の代表たらんとする動きもあれば、一方では「はてしない物語」映画化に伴い、互いに批判論争をくりひろげた時期もあった。
 +当時の信望者の中でもやや意見が分かれた所でもあるが、シュタイナー思想が「映画を芸術のメディアとして認めない」(「ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と
 +現代」樋口純明著、現在は絶版)立場にあって、エンデはシュタイナーの芸術観は貧しすぎると述べ、また信望者の側からも「背徳のアントロポゾーフ」と呼ばれ大論
 +争をまき起こした経緯を、無視すべきではない。
 +なぜならそこにこそ、エンデとシュタイナーの違いが際立つのであり、作品理解への鍵も、また内包されていると考えるからである。
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 +== 代表作 ==
 +『モモ』
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 +1973年発表。児童文学
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 +1974年ドイツ児童文学賞を受賞。各国で翻訳されている。特に日本では根強い人気があり、日本での発行部数は本国ドイツに次ぐ。
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 +1986年に西ドイツ・イタリア制作により映画化。映画にはエンデ自身が本人役で出演した。
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 +'''『モモ』のあらすじ'''
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 +大都会の町外れにある壊れかけた小さな円形劇場。そこに住み着いた女の子モモは、人々の話を聞く才能を持っている。モモに話を聞いてもらうと大人も子どもも元気で豊かな気持ちになれるのだ。一方町では「時間貯蓄銀行」の灰色の男たちが人々に時間の節約を呼びかけている。時間を貯蓄した人々が町にあふれ、みなせかせかと味気ない生活をし始める。モモは灰色男たちの敵とみなされてしまうが、不思議な亀カシオペイアに助けられてみんなの時間を取り戻し、町には再びゆったりと時が流れ出す。
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 +== 参考文献 ==
 +*http://www.fsinet.or.jp/~necoco/endesu.htm
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 +*http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/michael-ende.htm
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 +*http://www.ehon.info/whoswho/EndeMichael.html
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 +*「モモ」ミヒャエル・エンデ 著  大島 かおり 訳 (岩波少年文庫)
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 +*「人間理解からの教育」 ルドルフ・シュタイナー 著 西川隆範 訳(筑摩書房)

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ミヒャエル・エンデ(Michael Ende)1929年11月12日、南ドイツ・ガルミッシュ・パルテンキルヒェン生まれ。小説家。43歳頃から創作を始め、俳優学校卒業後、本格的作家活動に入り、1960年の子供向けの小説『ジム・ボタンの冒険物語』で最初の成功を収めた。1985年に『はてしない物語』の翻訳者、佐藤真理子さんと結婚した。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。主な作品に、小説『モモ』、戯曲『ゴッゴローリ伝説』、歌詞集『夢のボロ市』などがある。1995年8月28日午後7時10分、ドイツのシュツットガルトの病院で死去、65歳。

目次

エンデの生い立ち

ミヒャエル・エンデは1929年11月12日南ドイツ、バイエルン州の山間にある街ガルミッシュで生まれた。彼の父親エトガー・カール・アルフォンス・エンデは画家だった。シュルレアリスム的な独自の画風を持っていたエトガーは、素描やエッチングなどの作品を数多く描いたが、残念ながら高い評価を得ることができず、生活は常に苦しかったそうだ。その上、彼の作品の多くは第二次世界大戦中の空襲により、多くの作品が焼失してしまった。そうした苦しい生活を支えていたのは、彼の母親ルイーゼであった。彼女は、真面目で地味な父親に比べ、明るく活発な性格で、家庭を明るくするだけでなくマッサージなどの資格を取得して家計をも支える大黒柱的存在だった。こうした両親の元、彼は母親のポジティブな生き方と父親の芸術性を上手く受け継ぎながら成長していった。彼が一人息子だったこともあり、父親は教育については非常に熱心で、特に父親自身が大きな影響を受けていたドイツが生んだ偉大な思想家ルドルフ・シュタイナーの影響を彼に強く残した。


ミヒャエル・エンデとシュタイナー教育

エンデとシュタイナーとの出会いは、彼が17歳の時にさかのぼる。それまで通ったギムナジウムから、知人の紹介でエンデが転校した先がシュタイナー学校であった。詳細は年譜の項に述べるが、エンデは12歳で一度落第も経験しており、いわゆる問題児であったという。学校に対する強い反感も枷となって、転校後もシュタイナー学校の教育方針にすんなりとけこんだ訳ではなかったらしい。が、シュタイナー学校の自由な校風は、エンデにそれなりの開眼をもたらした。「何か本当の勉強ってものをやりたい意欲が湧いてきた。そのためにはあせって先へ進むよりも、じっくり時間をかけて学びたい」。自発的に学ぶことの楽しさを初めて知り得た当時のエンデが、両親に宛てた若やいだ手紙が遺されている(「シュタイナー再発見の旅」子安美知子著)。

しかし、そのシュタイナー学校を、エンデは卒業を間近にして2年足らずで退学、俳優学校に転入している。エンデ自身は、シュタイナー学校から当時の自分が受けた 影響については、実はさほど重要視しておらず、異文化ショックのような「ものめずらしさ」程度であったと述懐している(「エンデと語る」子安美知子著)。シュタイナー学校が日本で紹介される折にあたっては、一時的にせよエンデがシュタイナー教育の申し子であるような過剰な報道がなされたこともあったらしい。かと言って、エンデが作家として大成したのはシュタイナー教育の賜物だ、などと原因づけ るのはあたらない。子安氏がその著作で指摘するように、エンデ文学とシュタイナー教育を直結することは、早計にすぎると思われる。


ミヒャエル・エンデとシュタイナー思想

シュタイナーの思想については、エンデ本人は、精神のありかたという最も重要な部分においてはシュタイナーの理念によるところが大きいことを認めている。しかし、彼自身がシュタイナー人智学の信望者(アントロポゾーフ)であったかどうかという事については、エンデは明言を避けている。 これはおそらく、シュタイナー思想そのものが当時、多くの可能性を秘めて広がり始めた時期でもあったために、信望者の中にもさまざまな幅が生じていたのが一因 でもあったろうと思われる。エンデをアントロポゾーフの最大の代表たらんとする動きもあれば、一方では「はてしない物語」映画化に伴い、互いに批判論争をくりひろげた時期もあった。 当時の信望者の中でもやや意見が分かれた所でもあるが、シュタイナー思想が「映画を芸術のメディアとして認めない」(「ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と 現代」樋口純明著、現在は絶版)立場にあって、エンデはシュタイナーの芸術観は貧しすぎると述べ、また信望者の側からも「背徳のアントロポゾーフ」と呼ばれ大論 争をまき起こした経緯を、無視すべきではない。 なぜならそこにこそ、エンデとシュタイナーの違いが際立つのであり、作品理解への鍵も、また内包されていると考えるからである。


代表作

『モモ』

1973年発表。児童文学

1974年ドイツ児童文学賞を受賞。各国で翻訳されている。特に日本では根強い人気があり、日本での発行部数は本国ドイツに次ぐ。

1986年に西ドイツ・イタリア制作により映画化。映画にはエンデ自身が本人役で出演した。


『モモ』のあらすじ

大都会の町外れにある壊れかけた小さな円形劇場。そこに住み着いた女の子モモは、人々の話を聞く才能を持っている。モモに話を聞いてもらうと大人も子どもも元気で豊かな気持ちになれるのだ。一方町では「時間貯蓄銀行」の灰色の男たちが人々に時間の節約を呼びかけている。時間を貯蓄した人々が町にあふれ、みなせかせかと味気ない生活をし始める。モモは灰色男たちの敵とみなされてしまうが、不思議な亀カシオペイアに助けられてみんなの時間を取り戻し、町には再びゆったりと時が流れ出す。



参考文献

http://www.fsinet.or.jp/~necoco/endesu.htm

http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/michael-ende.htm

http://www.ehon.info/whoswho/EndeMichael.html

*「モモ」ミヒャエル・エンデ 著  大島 かおり 訳 (岩波少年文庫)

*「人間理解からの教育」 ルドルフ・シュタイナー 著 西川隆範 訳(筑摩書房)


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