アドラー心理学
出典: Jinkawiki
2010年1月19日 (火) 17:32の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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== アドラー心理学の視点 == | == アドラー心理学の視点 == | ||
- | '''共同体感覚'''……人は誰もが集団に所属したい意識を持っているのであり、集団からはみ出してまで生活しようとはしないというもの。そして集団に所属しているときに自分自身が集団に居場所があったり何か集団に貢献して関わっていこうとする。 | + | '''共同体感覚''' |
- | '''強い強調(太字)''' | + | |
- | '''強い強調(太字)''' | + | 人は誰もが集団に所属したい意識を持っているのであり、集団からはみ出してまで生活しようとはしないというもの。そして集団に所属しているときに自分自身が集団に居場所があったり何か集団に貢献して関わっていこうとする。 |
- | '''強い強調(太字)''' | + | |
- | '''強い強調(太字)''' | + | '''目的を探る''' |
- | '''強い強調(太字)''' | + | |
- | '''強い強調(太字)''' | + | 原因を追究せず、「荒れ」をつくっていく目的は何なのかを探るのである。目的を探るのは、次のような利点がある。 |
- | '''強い強調(太字)''' | + | |
- | '''強い強調(太字)''' | + | まず、「荒れ」の目的を見つけることで、その目的に対処していく方法を話し合える。次に、方法を考えて実行すればよいということで気が楽になる。そして、どんな点で励まし勇気付けていくかというポイントを考えられるようになる。さらに、未来を作り出すことを可能にしていくのである。 |
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+ | '''誰の課題かを見る''' | ||
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+ | 「荒れ」の渦中にいるような子どもがとる良くない行動を、アドラー心理学では「不適切な行動」という。このような不適切な行動は、家庭での甘やかしや過干渉が引き金になっていることは否めない。しかし、だからといって全てそうであったなら、その不適切な行動はどうして学校だけに現れたのだろうか。 | ||
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+ | 実は、学校での不適切な行動を問題視しているのは、教師なのである。保護者は問題視していない。というより、問題視する言動が家庭ではないのである。 | ||
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+ | つまり、この不適切な行動を問題しているのは学校側であり、学校の解決するべき課題なのである。 | ||
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+ | '''個人は分けられない総体的存在''' | ||
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+ | アドラー心理学は、本来の名称を個人心理学という。「個人」という英名individualの通り、アドラーは、個人を分割できない統一された総体ととらえた。 | ||
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+ | 個人を分割できない総体としてとらえるということは、一見すると矛盾するように見える2つの行為も、「実は本人にしてみれば矛盾はしていない」という。自分の判断規準がその人の奥にあって、その規準にしたがって行動を自ら決定しているというのだ。 | ||
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+ | 個人心理学(=アドラー心理学)という見地から人間をとらえると、人は分割できない総体な存在である。そして、この総体な存在を動かしているのは、他でもない個人本人なのである。その人の奥に潜んでいる判断基準を見つけることができれば、その人の行動を予見することが大体において可能になっていくはずである。そして、どんな行動でも自らの行動を決定しているのはいつも「自分」なのである。 | ||
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+ | '''不適切な行動と適切な行動''' | ||
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+ | 不適切な行動やそれに同調していく子どもたちは、大体においてサボるというよりも注目を集めたいとか、学級のヒーローになりたいという目的を持っている子どもが多い。または友達や教師を中傷して悦に浸るようなところもある。だから、教師がこの子供たちを注意すればするほど、子どもたちの目的は成就していく。 | ||
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+ | 一方で、適切な行動をとる子どもたちは、授業の邪魔はされるし、注意すれば傷つく言葉を浴びせられるし、教師からは頑張っていても声をかけてもらえない。ありとあらゆる場面で報われない状況に置かれやすい。 | ||
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+ | 初期の対応を間違うと、適切な行動をしている子どもたちもどんどんと不適切な行動のほうに傾いていってしまう。 | ||
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+ | というのは、適切な行動をとっていると、白い目で見られたり、気取っていると見られたり、いじめの対象にあげられたり、勇気をくじかれることが多くなっていくからである。 | ||
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+ | '''不適切な行動から目的を探る''' | ||
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+ | 不適切な行動を起こす子どもたちの目的をまず特定していくことが大切である。全ての子どもが「注目」の段階ではないだろう。「復讐」の段階に入っている子どもがいるかもしれない。「無力や無能力」の段階に入っている子どもがいるかもしれない。 | ||
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+ | '''劣等感''' | ||
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+ | 子供たちと付き合っていくと、「あのとき言わなくて良かったなあ」と思う場面に出会うことがある。 | ||
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+ | アドラー心理学のいう劣等感とは、自分の中で劣っていると思い込んでいるマイナスなことである。他人から見れば劣っていると思えないことでも、本人がそうと思えばそれが劣等感である。アドラー心理学では、子どもでも大人でも関係なく劣等感を補うように人間は行動していくと考えたのである。引け目(負い目)を感じてそれを補って取り返そうとしたかもしれない。 | ||
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+ | '''尊敬''' | ||
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+ | もっと子どもを尊敬していこう。もっと子どもを信頼していこう。そうすれば、子どもは必ずその気持ちを受け取ってくれる。見返りを期待しない尊敬と信頼を子どもに寄せることで、子どもは温かいまなざしの存在を感じていく。 | ||
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+ | それが、教師と子どもの関係の基盤となる。その基盤があって初めて、協働できるし、共創できるのである。教導ではなく協働。競争ではなく共創。弱肉強食でない、生き馬の目を抜くようなことのない、共に働き、支えあう関係をつくっていくことができるだろう。 | ||
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+ | '''自分が変わろうとすること''' | ||
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+ | 人を変えようとするよりも自分が変わっていくほうがよほど簡単である。教師である自分が変わることにより、子どもたちは、教師の見方を変えてくれるのである。急がば回れではなくて、急がば近道である。例えば、昨日まで忙しくて授業を工夫しなかったのであれば、体全体を使って取り組んでいける授業に変えていく。マジックで答えを見せていくこともいいかもしれない。何か昨日までと変わったことに取り組んでいってみると、子供たちの目も変わってくるだろう。 | ||
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+ | == 参考文献 == | ||
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+ | 福永 敬著 『アドラー心理学を活かした学級の再生―立ちすくむ学級・学校への提言―』 明治図書 2006年 | ||
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+ | A・アドラー著 岸見 一郎 訳 『子どもの教育』 一光社 1998年 |
最新版
アドラー心理学は、精神科医アルフレッド・アドラー(1870~1937)によって始まった心理学の理論である。アドラーは、オーストリアでフロイトと共に心理学を研究していたが袂を分かち、独自の理論をつくった。その理論を、当時の非行少年や親子問題のカウンセリングに役立てていった。特筆すべきは、その理論の古さにある新しさである。第2次世界大戦前につくられた理論という古さに関わらず、現在の学校現場における子どもたちの行動にぴったりと当てはまるという新しさである。そして、我々が問題を見つけたときに最初に考える「なぜか」という原因追求をするのではなく、「何を目的に行動しているか」という視点で子どもを見ていこうとしていることである。原因論ではなく、目的論で子供たちの行動をとらえていこうとするのである。
アドラー心理学の視点
共同体感覚
人は誰もが集団に所属したい意識を持っているのであり、集団からはみ出してまで生活しようとはしないというもの。そして集団に所属しているときに自分自身が集団に居場所があったり何か集団に貢献して関わっていこうとする。
目的を探る
原因を追究せず、「荒れ」をつくっていく目的は何なのかを探るのである。目的を探るのは、次のような利点がある。
まず、「荒れ」の目的を見つけることで、その目的に対処していく方法を話し合える。次に、方法を考えて実行すればよいということで気が楽になる。そして、どんな点で励まし勇気付けていくかというポイントを考えられるようになる。さらに、未来を作り出すことを可能にしていくのである。
誰の課題かを見る
「荒れ」の渦中にいるような子どもがとる良くない行動を、アドラー心理学では「不適切な行動」という。このような不適切な行動は、家庭での甘やかしや過干渉が引き金になっていることは否めない。しかし、だからといって全てそうであったなら、その不適切な行動はどうして学校だけに現れたのだろうか。
実は、学校での不適切な行動を問題視しているのは、教師なのである。保護者は問題視していない。というより、問題視する言動が家庭ではないのである。
つまり、この不適切な行動を問題しているのは学校側であり、学校の解決するべき課題なのである。
個人は分けられない総体的存在
アドラー心理学は、本来の名称を個人心理学という。「個人」という英名individualの通り、アドラーは、個人を分割できない統一された総体ととらえた。
個人を分割できない総体としてとらえるということは、一見すると矛盾するように見える2つの行為も、「実は本人にしてみれば矛盾はしていない」という。自分の判断規準がその人の奥にあって、その規準にしたがって行動を自ら決定しているというのだ。
個人心理学(=アドラー心理学)という見地から人間をとらえると、人は分割できない総体な存在である。そして、この総体な存在を動かしているのは、他でもない個人本人なのである。その人の奥に潜んでいる判断基準を見つけることができれば、その人の行動を予見することが大体において可能になっていくはずである。そして、どんな行動でも自らの行動を決定しているのはいつも「自分」なのである。
不適切な行動と適切な行動
不適切な行動やそれに同調していく子どもたちは、大体においてサボるというよりも注目を集めたいとか、学級のヒーローになりたいという目的を持っている子どもが多い。または友達や教師を中傷して悦に浸るようなところもある。だから、教師がこの子供たちを注意すればするほど、子どもたちの目的は成就していく。
一方で、適切な行動をとる子どもたちは、授業の邪魔はされるし、注意すれば傷つく言葉を浴びせられるし、教師からは頑張っていても声をかけてもらえない。ありとあらゆる場面で報われない状況に置かれやすい。
初期の対応を間違うと、適切な行動をしている子どもたちもどんどんと不適切な行動のほうに傾いていってしまう。
というのは、適切な行動をとっていると、白い目で見られたり、気取っていると見られたり、いじめの対象にあげられたり、勇気をくじかれることが多くなっていくからである。
不適切な行動から目的を探る
不適切な行動を起こす子どもたちの目的をまず特定していくことが大切である。全ての子どもが「注目」の段階ではないだろう。「復讐」の段階に入っている子どもがいるかもしれない。「無力や無能力」の段階に入っている子どもがいるかもしれない。
劣等感
子供たちと付き合っていくと、「あのとき言わなくて良かったなあ」と思う場面に出会うことがある。
アドラー心理学のいう劣等感とは、自分の中で劣っていると思い込んでいるマイナスなことである。他人から見れば劣っていると思えないことでも、本人がそうと思えばそれが劣等感である。アドラー心理学では、子どもでも大人でも関係なく劣等感を補うように人間は行動していくと考えたのである。引け目(負い目)を感じてそれを補って取り返そうとしたかもしれない。
尊敬
もっと子どもを尊敬していこう。もっと子どもを信頼していこう。そうすれば、子どもは必ずその気持ちを受け取ってくれる。見返りを期待しない尊敬と信頼を子どもに寄せることで、子どもは温かいまなざしの存在を感じていく。
それが、教師と子どもの関係の基盤となる。その基盤があって初めて、協働できるし、共創できるのである。教導ではなく協働。競争ではなく共創。弱肉強食でない、生き馬の目を抜くようなことのない、共に働き、支えあう関係をつくっていくことができるだろう。
自分が変わろうとすること
人を変えようとするよりも自分が変わっていくほうがよほど簡単である。教師である自分が変わることにより、子どもたちは、教師の見方を変えてくれるのである。急がば回れではなくて、急がば近道である。例えば、昨日まで忙しくて授業を工夫しなかったのであれば、体全体を使って取り組んでいける授業に変えていく。マジックで答えを見せていくこともいいかもしれない。何か昨日までと変わったことに取り組んでいってみると、子供たちの目も変わってくるだろう。
参考文献
福永 敬著 『アドラー心理学を活かした学級の再生―立ちすくむ学級・学校への提言―』 明治図書 2006年
A・アドラー著 岸見 一郎 訳 『子どもの教育』 一光社 1998年