ホリスティック教育
出典: Jinkawiki
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吉田敦彦 著 『ホリスティック教育論―日本の動向と思想の地平―』 日本評論社 1999年 | 吉田敦彦 著 『ホリスティック教育論―日本の動向と思想の地平―』 日本評論社 1999年 | ||
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+ | 日本ホリスティック教会 編 『ホリスティック教育入門』 せせらぎ出版 2005年 | ||
http://www.holistic-edu.org/ | http://www.holistic-edu.org/ |
最新版
「あるものは他のすべてのものとつながっています。どんな小さな個にも、そこに全体性が息づいています。まわりの人や、生き物や、大地との〈つながり〉。頭だけではなく、心や身体との〈つながり〉。さまざまな教科の間の総合的な〈つながり〉。見えるものと見えないものとの〈つながり〉。ホリスティック教育は、バラバラになりがちな〈つながり〉を大切にして、それに気づき、それを広げ、深めていくことを目指します。」(日本ホリスティック教会より)
目次 |
「ホリスティック」という概念の役割
「概念・コンセプト」の果たす、とりわけ混迷の時代における役割を、次のように定義した人がいる。――――――概念とは、単にそれが無いと見当もつかず、互いに関係が無いように見える現象の中に、ある〈まとまりをもったつながり〉を見出すための道具にすぎない。しかし、さらに言うと、その概念によって見て取られた〈まとまりをもったつながり〉が、とりわけ危機の時代の混沌の中では、次の時代を切り開く再構築への力となり得る。
「ホリスティック」という概念を用いて、危機の時代=転換期にある教育現実の、それが無いと見当もつかず、互いに関係が無いように見える問題や課題に、ある〈まとまりをもったつながり〉を見出すことである。それを見出すことによって、混沌の中で、あちらこちらから次々と脈絡なく問題や課題が生じてきているのではなく、根底においては〈ひとつらなり〉のものとして着実に、ある方向に向かって現実が動いていることを見て取ることができる。
その現実の動き・流れを見て取ることができると、今していることのうち、力を入れて推し進めるべきところ、力を抜いて流れにまかせてよいところ、逆行してしまっているところ、などが見えてくる。次々と生じるあれこれの課題に振り回されずに、問題の核心に迫ることができる。あるいは、その大局的な動向が見えてくると、それまで取り組みが孤立しがちだった分野や地域や個人が、実はお互いに多くの同行者を持っていることを見出し連携できるようになる。
「ホリスティック」というコンセプトは、このような見極めを助けるための道具である。そのことによって、「次の時代を切り開く再構築の力」となろうとするものである。
ホリスティック教育の定義
ここでは、最も定評のあるジョン・ミラーのホリスティック教育の定義を紹介する。 「ホリスティックな教育は、〈つながり〉を探求し、深めていくためのものである。それは断片化から抜け出し、〈つながり〉へと向かっていく試みである。」最もシンプルな形での定義である。ジョン・ミラーは、この定義における〈つながり〉を、さらに次のような六つの次元ないし位相に具体化する。
「ホリスティック教育は〈かかわり/つながり〉に焦点をあてた教育である。すなわち、論理的思考と直観との〈かかわり/つながり〉、心と身体との〈かかわり/つながり〉、知のさまざまな分野の〈かかわり/つながり〉、個人とコミュニティとの〈かかわり/つながり〉、地球との〈かかわり/つながり〉、自我と〈自己〉との〈かかわり/つながり〉である。
ホリスティックな教育においては、学習者はこれらの〈かかわり/つながり〉を深く追求し、この〈かかわり/つながり〉に目覚めるとともに、その〈かかわり/つながり〉をより適切なものに変容していくために必要な力を得る。」
「ホリスティック」の五つの意義
「ホーリズム」の提唱者スマッツは、「〈全体whole〉という語は、その日常的な使用においては気づかれていない、豊かな意味を含むのである」と述べる。ハーバード大学の教育哲学の重鎮R・ウーリッヒは、まだ「ホリスティック」という言葉がほとんど使われていなかったころ、次のように述べていた。「whole(全体)、hale(元気)、healthy(健康な)、そしてholy(聖なる)というような言葉は、同一の語源に由来するということを忘れてはならない。言葉はしばしば、それを使用している人々よりも多くのことを知っている。」
その語源とは、ギリシャ語の「ホロス(holos)」である。たとえば古典ギリシャの時代、プラトンの『饗宴』のなかでアリストファネスは、この「全きもの(ホロス)」への、限りない憧憬と探求こそが「愛(エロス)」である、と力説している。
まず外来語「ホリスティック」をそのまま用いる意義の第一に、このような「ホロス(holos)」という語源と派生語の持つ意味合いの豊かさをあげたい。「ホリスティック(holistic)」とはこの語源から直接に、二十世紀の二十年代に創られ、その後半から辞書にのり始めた新しい概念である。
なお、この派生語「ホールネス(wholeness)」は、同じ「全体」であっても、「トータリティ(totality)」と明確に区別して用いられる。むしろ「全体主義」の語源である「トータリティ」に対抗するために、「個人主義」の限界を踏まえて、「ホールネス(wholeness)」という言葉が選び取られた、といってよい。
第二に、それが、慣れ親しんだ日常語での「ものの見方・考え方」の背後にある「発想の枠組み」そのものをとらえ返す役割を持つからである。その「ものの見方・考え方の枠組み」のことを「パラダイム」というが、「ホリスティック」という言葉は、一九七〇、八〇年代以降、この「パラダイム」という用語への形容詞として使われることが多かった。
私たちの思考や発想(思想)は、すでにいつも、諸々の言葉によって枠付けられているため、問題をその枠組みそのものから根本的にとらえ直そうとするときには、従来の手垢にまみれた言葉でこと足れりとはできない。確かに、和語や東洋思想の言葉には、「ホリスティック」に近似する言葉、むしろよりふさわしいものもある。しかし私たちは西洋近代を否定して東洋に回帰したり、日本の単なる復古を求めるものではないのだから、そのような古きよき言葉に頼りすぎるわけにもいかない。たとえ不慣れであっても、新しいワイン(思考法)を入れる新しい革袋(概念)を用意したほうがいい。不慣れなほうが、慣れ親しんだ自分の思考法を相対化しやすいからである。
第三に、それが、教育の分野だけでなく、医療や看護、心理療法、経営、建築や街づくり、あるいは環境保護等の市民運動と言った、人間に関わるさまざまな実践領域・職域で使われ始めており、それらの間の連携を深めていく「つなぎ言葉」となりうるからである。ホリスティックなアプローチは、一九九〇年代以降、単なる流行現象を超えて、より地に足のついたかたちで、これらの諸々の領域の現実に根を下ろし始めている。
第四に、国際語「ホリスティック」は、近代化や近代文明の問題が地球規模で露呈している現在、国境を越えて人々が共に問題を共有し新たな方向性を模索していく際に役に立つ。日本の中の現実に向き合う際にも、今生じている問題が、狭く日本独自の問題であるだけでなく、むしろ、人類史文明史的な転換期において生じてきている問題であること、そしてその問題を克服していこうとするグローバルな潮流がすでにあることを、このコンセプトとともに知ることができる。
最後に、そのホリスティック・パラダイムが、自然科学・社会科学・人文科学を横断して、現代諸科学がその最先端で模索する新たなパラダイムを理解するのに役立つからである。スマッツによって提唱された「ホーリズム」は、一般システム論の現代的展開としての自己組織化論や自己創出性(オートポイエーシス)論などへ継承されている。またそれらを「ホロン」概念などに注目して宇宙論的進化論的に総合する研究も進展をみせている。これらと教育学研究とを領域横断的に連携させていくことによって、これまで対話に乏しかったさまざまな教育思想の系譜の間に、共通の地平を切り拓くことができると考える。
参考文献
吉田敦彦 著 『ホリスティック教育論―日本の動向と思想の地平―』 日本評論社 1999年
日本ホリスティック教会 編 『ホリスティック教育入門』 せせらぎ出版 2005年