戦国武将と茶の湯
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命より大切な茶道具
信長に2度命を助けられ信長を2度裏切った男がいる。主家を裏切り、将軍足利義輝を弑逆し、東大寺大仏殿を焼き払った男、松永弾正少弼久秀である。信長が彼を助命したのは名物九十九茄子の茶入を送られたからとも、最後に爆死まで追い込まれたのは茶釜平蜘蛛の引渡しを拒否したからとも言われている。当時、命に値する品として茶道具が認識されていた。
信長は茶道具を褒美として、あるいは家臣団掌握の方法としても利用していた。甲斐攻略で戦功のあった滝川一益は信長に珠光小茄子の茶入を所望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国、信濃の一部の加増で落胆したという逸話がある。普通、大名は家臣の軍功に対し、領地加増や金銭で報いる。それを小さな茶道具ひとつの価値と同等たらしめたのだった。だが、領地の代わりとするには、単なる道具として出なく、そこに別の価値観が生まれなければならない。
茶道具賜与の意味と茶室内でのやり取り
道具の賜与は、名物といわれる高価値の品を単に与えるのではなく、茶会を開く権利を認めるということである。中には秀吉が主催した北野大茶会のような例外もあるが、多くは四畳半、なかには妙喜庵待庵のようにわずか二畳の狭い空間で、主人、主客が余人を交えずにやり取りをできる場であった。「茶室外交」とも呼ばれる濃密な関係性を築き、相手方と交渉することを許す、それだけ信用できる家臣と主君に認められることでもあった。
茶は、主人が点てる場合もあるが、多くの場合は茶頭が点てた。つまり、茶頭とは交渉の場に立ち会える存在でもあった。3大宗匠と呼ばれた堺の今井宗久、津田宗及、千利休は物資調達の面でも信長に貢献したし、秀吉実弟の豊臣秀長が豊後の大友宗麟に「内々の儀は宗易(利休)、公のことは宰相(秀長)存じ候」というほど、政権内で重きを果たした。茶の湯とは、単なる娯楽・教養ではなかったのである。
参考文献:図解戦国史(成美堂出版)