志賀直哉

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明治39年、東京帝国大学文科大学英文学科に進学。明治43年直哉27歳の時に、公刊本「白樺」が創刊され、この創刊号に「網走まで」を発表。同年大学を退学。「白樺」の創刊とともに、直哉の創作への情熱は高まっていった。明治45年、「大津順吉」を「中央公論」に発表。はじめて百円の原稿料を得たが、父はこのことに感動しないのみか、短編集を作る上での出費にも協力しなかった。直哉は自活を決意し、地方生活を始める。大正3年、武者小路実篤の叔父の娘康子と結婚。この結婚でも父との衝突が起こり、翌大正4年、直哉は自ら志賀家からの廃嫡を願い出て、除籍し、一家を構えた。同年、千葉県我孫子に移住、前後7年半に及ぶ我孫子時代が始まる。翌年長女が生まれるがわずか56日で死去、深い悲しみに創作意欲も褪せていったが、友人たちの温かい刺激も手伝って、大正6年「城の崎にて」「佐々木の場合」などを発表、再び軌道にのりだした。同年、次女が誕生、父もこの出産を陰ながら喜んだ。そして8月31日、久しく続いた父との不和が自然と解ける。10月、直哉は喜びと興奮でいっきに「和解」を執筆。全青年期のしこりとなった父との対立はここに終わった。 明治39年、東京帝国大学文科大学英文学科に進学。明治43年直哉27歳の時に、公刊本「白樺」が創刊され、この創刊号に「網走まで」を発表。同年大学を退学。「白樺」の創刊とともに、直哉の創作への情熱は高まっていった。明治45年、「大津順吉」を「中央公論」に発表。はじめて百円の原稿料を得たが、父はこのことに感動しないのみか、短編集を作る上での出費にも協力しなかった。直哉は自活を決意し、地方生活を始める。大正3年、武者小路実篤の叔父の娘康子と結婚。この結婚でも父との衝突が起こり、翌大正4年、直哉は自ら志賀家からの廃嫡を願い出て、除籍し、一家を構えた。同年、千葉県我孫子に移住、前後7年半に及ぶ我孫子時代が始まる。翌年長女が生まれるがわずか56日で死去、深い悲しみに創作意欲も褪せていったが、友人たちの温かい刺激も手伝って、大正6年「城の崎にて」「佐々木の場合」などを発表、再び軌道にのりだした。同年、次女が誕生、父もこの出産を陰ながら喜んだ。そして8月31日、久しく続いた父との不和が自然と解ける。10月、直哉は喜びと興奮でいっきに「和解」を執筆。全青年期のしこりとなった父との対立はここに終わった。
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 +父との和解がなり、調和的な気持ちに落ち着いた直哉は、充実した創作活動に入っていく。特に大正10年から12年にかけて「暗夜行路」の大部分を執筆したことは、創作意欲の旺盛さをものがたっている。

2010年1月23日 (土) 12:09の版

志賀直哉

志賀直哉(しがなおや) 1883年(明治16年)~1971年(昭和46年)

白樺派の代表的な小説家。大正から昭和にかけて活躍した。

生立ち

明治16年、父直温、母銀の次男として宮城県石巻町に生まれる。

父直温は、当時第一銀行石巻支店に勤務、のち実業家として成功。志賀家は、代々武士の家柄で、3代目以降相馬藩に仕えていた。 直哉が学習院初等科から中等科に進んだ明治28年、生母を失い、養母浩を迎える。明治33年、直哉17歳の時内村鑑三の人間性に強く引かれ、内村の門下になり、以後7年間その門に出入りした。

明治34年、足尾銅山の鉱毒問題で世論が沸騰、直哉も荒廃した被害地視察を計画したが、父に強硬に反対され、親子は衝突した。これが16年間にわたる父との不和の端緒となった。

学習院中等科6年卒業の際、直哉は2度目の落第、武者小路実篤、木下利玄、正親町公和らと同級となる。直哉の2度の落第は、これらの文学仲間と邂逅し、創作の萌芽をもたらしたという点で、運命的な意味をもった。

明治39年、東京帝国大学文科大学英文学科に進学。明治43年直哉27歳の時に、公刊本「白樺」が創刊され、この創刊号に「網走まで」を発表。同年大学を退学。「白樺」の創刊とともに、直哉の創作への情熱は高まっていった。明治45年、「大津順吉」を「中央公論」に発表。はじめて百円の原稿料を得たが、父はこのことに感動しないのみか、短編集を作る上での出費にも協力しなかった。直哉は自活を決意し、地方生活を始める。大正3年、武者小路実篤の叔父の娘康子と結婚。この結婚でも父との衝突が起こり、翌大正4年、直哉は自ら志賀家からの廃嫡を願い出て、除籍し、一家を構えた。同年、千葉県我孫子に移住、前後7年半に及ぶ我孫子時代が始まる。翌年長女が生まれるがわずか56日で死去、深い悲しみに創作意欲も褪せていったが、友人たちの温かい刺激も手伝って、大正6年「城の崎にて」「佐々木の場合」などを発表、再び軌道にのりだした。同年、次女が誕生、父もこの出産を陰ながら喜んだ。そして8月31日、久しく続いた父との不和が自然と解ける。10月、直哉は喜びと興奮でいっきに「和解」を執筆。全青年期のしこりとなった父との対立はここに終わった。

父との和解がなり、調和的な気持ちに落ち着いた直哉は、充実した創作活動に入っていく。特に大正10年から12年にかけて「暗夜行路」の大部分を執筆したことは、創作意欲の旺盛さをものがたっている。


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