ド・レペ

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(ろう教育の展開とルイ16世の約束)
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-== ろうあの姉妹との出会い ==+'''ろうあの姉妹との出会い'''
 ド・レペとろうあの姉妹との出会いについては、公園の散歩中ににわか雨に見舞われ、建物の入り口で雨宿りをしている時に、2人の姉妹が現れたとされているが、出会いについてはいくつかの異なる説があり、残された資料も存在しないためあくまで推測の域は超えない。ただし、ド・レペが姉妹に会ったのをきっかけにろう教育を始めたということに関しては、ド・レペ自身も認めているので、間違いない事実である。後継者のシカールを始め、パリろうあ学校の教師だったべビアンやベルティエなどもこれを確認している。  ド・レペとろうあの姉妹との出会いについては、公園の散歩中ににわか雨に見舞われ、建物の入り口で雨宿りをしている時に、2人の姉妹が現れたとされているが、出会いについてはいくつかの異なる説があり、残された資料も存在しないためあくまで推測の域は超えない。ただし、ド・レペが姉妹に会ったのをきっかけにろう教育を始めたということに関しては、ド・レペ自身も認めているので、間違いない事実である。後継者のシカールを始め、パリろうあ学校の教師だったべビアンやベルティエなどもこれを確認している。
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 ろうあの姉妹の教育をしていたサン=ジュリアン修道院のヴァナン神父は、キリスト教教義普及会という修道会のサン・ジュリアン修道院に所属していた。この修道会は、特に子どもや職人を対象に教義の普及を目指し、版画を使ってろうあの子どもたちの教育も行われていた。しかし、1759年の9月19日にヴァナン神父が亡くなってから、2人の姉妹の面倒をみるものがいなくなり、しばらくの間そのままになっていた。そこで、ド・レペは彼らの面倒をみることが自分の天命だと考えたのである。彼がそう心の中で思った背景には理由があり、もともと、彼は聖職者として正式なミサ(聖祭:父なる神にイエス・キリストの体と血を捧げる儀式)をすることを禁止されていた。そこで、ミサを終えた人々に、教会の善意で非公式に聖書を読み聞かせ、そこに書かれた歴史を説明し、説教していた。ただし、彼が禁止されているのは聞こえる人に対してだけで、聞こえない人に対しては除外されると彼は考えていた。もし、自分が言葉以外で、聞こえない人に神の教えを説くことができれば、それは許されるはずだと彼は自分なりの結論に達した。こうして彼のろう教育への第一歩が始まったのである。  ろうあの姉妹の教育をしていたサン=ジュリアン修道院のヴァナン神父は、キリスト教教義普及会という修道会のサン・ジュリアン修道院に所属していた。この修道会は、特に子どもや職人を対象に教義の普及を目指し、版画を使ってろうあの子どもたちの教育も行われていた。しかし、1759年の9月19日にヴァナン神父が亡くなってから、2人の姉妹の面倒をみるものがいなくなり、しばらくの間そのままになっていた。そこで、ド・レペは彼らの面倒をみることが自分の天命だと考えたのである。彼がそう心の中で思った背景には理由があり、もともと、彼は聖職者として正式なミサ(聖祭:父なる神にイエス・キリストの体と血を捧げる儀式)をすることを禁止されていた。そこで、ミサを終えた人々に、教会の善意で非公式に聖書を読み聞かせ、そこに書かれた歴史を説明し、説教していた。ただし、彼が禁止されているのは聞こえる人に対してだけで、聞こえない人に対しては除外されると彼は考えていた。もし、自分が言葉以外で、聞こえない人に神の教えを説くことができれば、それは許されるはずだと彼は自分なりの結論に達した。こうして彼のろう教育への第一歩が始まったのである。
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 +== 手話法による教育の試み ==
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 + ろうあの姉妹の教育を始めようとしても、ド・レペは何から始めたらよいのかすぐにはわからなかった。そこできっかけになったのが、ろうあの姉妹が身振りでコミュニケーションをとる姿であった。それに、ド・レペが聖職者としてギリシャ語やラテン語を学び、語学にたけた、いわばコミュニケーションの専門家で、通訳者でもあったことがプラスになった。また、彼は当時広まりつつあった新しい思想、すなわち啓蒙思想にも関心をもち、出たばかりの「百科全書」も全て読んだ。さらに、哲学、宗教、言語、法律、文学、医学、科学、教育とあらゆる分野にも目を通していた。ド・レペはそうしたなかから言語に関する書物を探しだし、ろうあに関する知識を得た。
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 + そして、ド・レペはまず、身振り言語、すなわち手話を一定の法則に従わせ、次にフランス語の体系に対応させることにした。そうすれば、フランス語と手話との間で共通性が生まれ、お互い容易に理解できるようになり、その結果、教育効果を高めることができると彼は考えたのである。
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 +== ろう教育の展開とルイ16世の約束 ==
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 + ド・レペが過去のろう教育の先駆者たちと決定的に違っていたのは、初めから裕福な家庭の個人の教授でなく、貧富を問わず不特定の多数のろうあ児を対象に考えていたことであった。つまり、すべての人を等しく対象にする現在の公教育の概念に通ずるものである。
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 + 確かに、彼の「世界最初のろうあ学校」は、彼の住まいのサロン(居間)であって、外観からはおよそ学校といえる代物ではなかったかもしれない。しかし、大切なのは外観ではなくその中身、すわち学校として認められるかどうかは教育の成果にかかっているのである。ド・レペもそのことは十分承知で、授業が軌道に乗ると、彼はそれをいかに社会的に認知されるかを模索し始めた。その結果、彼は授業を多くの人に見せ、その有効性を理解してもらおうと思いついたのである。生徒の兄弟親のみならず、教育関係者、行政当局、政府高官、宗教関係、そして資金援助のもっとも期待できる資産家などを招き、その面前でろう教育の可能性、有効性を認識させられれば、ゆくゆくは正式な学校と認められ、経済的援助も受けられると考えたのである。
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 + ルイ16世はド・レペの学校をどうするかの検討を国王顧問会議にはかった。顧問会議は審議の末、1778年、ド・レペが取り組んできた教育を高く評価し、その施設を恒久的に国家の保護下に置き、同時に教育にあたる教師を教師を養成すべきであると具申した。その結果、国王はセレスチン修道会の建物(修道院)に学校を移転し、その資産の一部を学校の運営費や生徒の養育費にあてるという裁決を下した。さらに、それに追認する2番目の裁決では、ド・レペが私的に始めた学校が、教育施設として国家によって正式に認知されたことを意味していた。
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 +== 死と再生 ==
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 +'''ド・レペの死'''
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 + ド・レペは、晩年痛風を病み、関節が痛く、思うように歩けず、安楽椅子にかけていることが多くなった。革命が起こった頃には、ほとんどベッドに横になったままで、歴史的な事件を目撃することもなかった。1789年の12月23日、聖イブに捧げられた日も、彼はベッドに横たわっていた。少なくてもこの年の夏以降、彼は永遠の眠りが近づいていることを感じていた。そして、かけつけてきた教え子、仲間の神父、友人らに見守られて静かに息を引き取った。78歳だった。
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 +'''国立パリろうあ学校の誕生'''
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 + ド・レペ死後、彼の学校は面倒をみる人もなく、また運営資金も欠いて、授業は行われず事実上閉校状態に陥っていた。後継者となったシカールは、授業の再開をはかる一方、公立化を進めるのに、国民議会に資金援助とセレスチン修道会の施設(修道院)をろうあ学校にあてるという1778年の国王裁決の実施を求めた。そして、翌1791年7月になって、国立ろうあ学校に関する布告が出され、ド・レペの学校は国立のろうあ学校として認可された。そして、2ヶ月後の9月にアユイが創設したパリの盲学校とともにその建物に入り、国立盲ろうあ学校として発足した。
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 + しかし、同じ神父でもアユイとシカールの仲はよくなかった。結局、1794年にろうあ学校は盲学校と別れ、サン=マグロワール神学校に移った。こうしてド・レペの念願だった学校の恒久化が実現し、以後多くのろうあ児がここで学ぶことになった。
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 +参考文献
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 +世界で最初のろう学校創設者ド・レペ 中野善達 赤津政之 (著)
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 +ド・レペの生涯 ベザギュ=ドルリュイ著 伊藤政雄監修 赤津政之訳

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 ド・レペはフランスの神父で、世界で最初にろう学校を開き、手話を使った教育を始めた人物である。正式な名はシャルル=ミシェル・ド・レペで、一般にはド・レペ神父として尊敬され、彼の名を冠した通りがパリやヴェルサイユにみられる。

 ド・レペは強い宗教的情熱をもち、社会的、精神的に苦しんでいる庶民のために献身的に尽力していた47歳の頃、宗教的用事で知人の家を訪問して、初めてろうあの姉妹にめぐり合った。その出会いをきっかけに、彼はろうあ教育を試みようと決意したと伝えられている。

 ド・レペと同時代のヨーロッパ各国にはろうあ者への教育を試みた人がかなりいたが、それらのほとんどは教育方法や金銭的な行き詰まりのため失敗した。また、その中にはろうあ教育の方法を自らの優位性や利益の確保のために特定の人のみに伝えようとする人も多くいた。しかし、ド・レペはろうあ者の教育のために自分の収入と財産の大部分を注ぎ込んで、死ぬまで教育を続けたということだけでなく、教育方法も惜しみなく公開し、ヨーロッパの各国にろうあ学校の設立を勧めた。これは彼の偉大な功績だが、もう一つの偉大さが彼にはある。それはろう者はろう者としての生き方を持つべきであるという思想である。彼はろう者を教える人はろう者であるべきであると唱えたが、それほどろう者への思いやりが深い人でもあった。


目次

生い立ち

ド・レペの誕生とその家系

 1712年11月24日、フランスではルイ14世が栄華を誇っていた時代、ド・レペは父シャルル=フランソワ・レペ、母フランソワーズ=マルグリット・ヴァリニョン4番目の子としてヴェルサイユで生まれた。レペ家は裕福なブルジョワ家庭で、父シャルルは後に宮廷建築家となり、母フランソワーズは有力な建築請負業者の娘であった。ド・レペは生まれた2日後に洗礼を受け、名付け親には母方の叔父、ミシェル・ヴァリニョンがなり、洗礼名は父シャルルと名付け親ミシェルからもらって、シャルル=ミシェルと名づけられた。

パリへの転居と学生時代

 1715年にルイ14世が亡くなって、レペ家の生活は変化を余儀なくされた。多くの人がヴェルサイユを去り、レペ家も20年ごろ引き払い、祖父の代から住んでいたパリに戻った。

 ド・レペは8歳頃から学校に通うようになった。もちろん、当時学校に通えるのは恵まれた家庭の子どもたちだけであった。ド・レペが入った学校は「4ヵ国学院」という17世紀に創立の新しい学校であった。そこでド・レペは貴族的な教育を受け、中等教育の前期過程を終え、二年間の後期過程に進んだ。ド・レペは後期過程で哲学をはじめ論理学、倫理学、自然科学などを勉強した後、1730年、パリ大学法学部に入学した。大学に入学した翌年、ド・レペはジャンセニストとして神に仕えようと決心し、剃髪して聖職者となった。しかし、ド・レペはローマ教皇アレクサンデル7世が1657年に出した信仰宣誓文には署名しなかった。この信仰宣誓文はジャンセニストでないことを誓うもので、王命により信仰宣誓文に署名しない聖職者は職を解かれることになっていた。ジャンセニストの神父であることを願ったので、ド・レペは署名を拒否したのである。こうした事情もあって実際に教会での仕事に就くこともなく、そのまま大学での学生生活を続けた。その間、フランス法と「ローマ法大全」を研究して、1733年5月、法学士の資格を取得し、パリ大学を修了した。


ろう教育への道

ろうあの姉妹との出会い

 ド・レペとろうあの姉妹との出会いについては、公園の散歩中ににわか雨に見舞われ、建物の入り口で雨宿りをしている時に、2人の姉妹が現れたとされているが、出会いについてはいくつかの異なる説があり、残された資料も存在しないためあくまで推測の域は超えない。ただし、ド・レペが姉妹に会ったのをきっかけにろう教育を始めたということに関しては、ド・レペ自身も認めているので、間違いない事実である。後継者のシカールを始め、パリろうあ学校の教師だったべビアンやベルティエなどもこれを確認している。

 唯一はっきりしているのは、ド・レペが教育用に使っていた六冊の手書きのノートから、1763年には授業が行われていたという事実である。したがって、出会いはそれより前ということになる。

 ろうあの姉妹の教育をしていたサン=ジュリアン修道院のヴァナン神父は、キリスト教教義普及会という修道会のサン・ジュリアン修道院に所属していた。この修道会は、特に子どもや職人を対象に教義の普及を目指し、版画を使ってろうあの子どもたちの教育も行われていた。しかし、1759年の9月19日にヴァナン神父が亡くなってから、2人の姉妹の面倒をみるものがいなくなり、しばらくの間そのままになっていた。そこで、ド・レペは彼らの面倒をみることが自分の天命だと考えたのである。彼がそう心の中で思った背景には理由があり、もともと、彼は聖職者として正式なミサ(聖祭:父なる神にイエス・キリストの体と血を捧げる儀式)をすることを禁止されていた。そこで、ミサを終えた人々に、教会の善意で非公式に聖書を読み聞かせ、そこに書かれた歴史を説明し、説教していた。ただし、彼が禁止されているのは聞こえる人に対してだけで、聞こえない人に対しては除外されると彼は考えていた。もし、自分が言葉以外で、聞こえない人に神の教えを説くことができれば、それは許されるはずだと彼は自分なりの結論に達した。こうして彼のろう教育への第一歩が始まったのである。


手話法による教育の試み

 ろうあの姉妹の教育を始めようとしても、ド・レペは何から始めたらよいのかすぐにはわからなかった。そこできっかけになったのが、ろうあの姉妹が身振りでコミュニケーションをとる姿であった。それに、ド・レペが聖職者としてギリシャ語やラテン語を学び、語学にたけた、いわばコミュニケーションの専門家で、通訳者でもあったことがプラスになった。また、彼は当時広まりつつあった新しい思想、すなわち啓蒙思想にも関心をもち、出たばかりの「百科全書」も全て読んだ。さらに、哲学、宗教、言語、法律、文学、医学、科学、教育とあらゆる分野にも目を通していた。ド・レペはそうしたなかから言語に関する書物を探しだし、ろうあに関する知識を得た。

 そして、ド・レペはまず、身振り言語、すなわち手話を一定の法則に従わせ、次にフランス語の体系に対応させることにした。そうすれば、フランス語と手話との間で共通性が生まれ、お互い容易に理解できるようになり、その結果、教育効果を高めることができると彼は考えたのである。

ろう教育の展開とルイ16世の約束

 ド・レペが過去のろう教育の先駆者たちと決定的に違っていたのは、初めから裕福な家庭の個人の教授でなく、貧富を問わず不特定の多数のろうあ児を対象に考えていたことであった。つまり、すべての人を等しく対象にする現在の公教育の概念に通ずるものである。

 確かに、彼の「世界最初のろうあ学校」は、彼の住まいのサロン(居間)であって、外観からはおよそ学校といえる代物ではなかったかもしれない。しかし、大切なのは外観ではなくその中身、すわち学校として認められるかどうかは教育の成果にかかっているのである。ド・レペもそのことは十分承知で、授業が軌道に乗ると、彼はそれをいかに社会的に認知されるかを模索し始めた。その結果、彼は授業を多くの人に見せ、その有効性を理解してもらおうと思いついたのである。生徒の兄弟親のみならず、教育関係者、行政当局、政府高官、宗教関係、そして資金援助のもっとも期待できる資産家などを招き、その面前でろう教育の可能性、有効性を認識させられれば、ゆくゆくは正式な学校と認められ、経済的援助も受けられると考えたのである。

 ルイ16世はド・レペの学校をどうするかの検討を国王顧問会議にはかった。顧問会議は審議の末、1778年、ド・レペが取り組んできた教育を高く評価し、その施設を恒久的に国家の保護下に置き、同時に教育にあたる教師を教師を養成すべきであると具申した。その結果、国王はセレスチン修道会の建物(修道院)に学校を移転し、その資産の一部を学校の運営費や生徒の養育費にあてるという裁決を下した。さらに、それに追認する2番目の裁決では、ド・レペが私的に始めた学校が、教育施設として国家によって正式に認知されたことを意味していた。

死と再生

ド・レペの死

 ド・レペは、晩年痛風を病み、関節が痛く、思うように歩けず、安楽椅子にかけていることが多くなった。革命が起こった頃には、ほとんどベッドに横になったままで、歴史的な事件を目撃することもなかった。1789年の12月23日、聖イブに捧げられた日も、彼はベッドに横たわっていた。少なくてもこの年の夏以降、彼は永遠の眠りが近づいていることを感じていた。そして、かけつけてきた教え子、仲間の神父、友人らに見守られて静かに息を引き取った。78歳だった。

国立パリろうあ学校の誕生

 ド・レペ死後、彼の学校は面倒をみる人もなく、また運営資金も欠いて、授業は行われず事実上閉校状態に陥っていた。後継者となったシカールは、授業の再開をはかる一方、公立化を進めるのに、国民議会に資金援助とセレスチン修道会の施設(修道院)をろうあ学校にあてるという1778年の国王裁決の実施を求めた。そして、翌1791年7月になって、国立ろうあ学校に関する布告が出され、ド・レペの学校は国立のろうあ学校として認可された。そして、2ヶ月後の9月にアユイが創設したパリの盲学校とともにその建物に入り、国立盲ろうあ学校として発足した。

 しかし、同じ神父でもアユイとシカールの仲はよくなかった。結局、1794年にろうあ学校は盲学校と別れ、サン=マグロワール神学校に移った。こうしてド・レペの念願だった学校の恒久化が実現し、以後多くのろうあ児がここで学ぶことになった。


参考文献

世界で最初のろう学校創設者ド・レペ 中野善達 赤津政之 (著)

ド・レペの生涯 ベザギュ=ドルリュイ著 伊藤政雄監修 赤津政之訳


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