コンプリヘンシブ・スクール2
出典: Jinkawiki
2010年2月11日 (木) 12:44の版 Bunkyo-studen2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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一般に総合制学校は普通教育から職業教育まで多様な教育課程を備えた学校。元来,イギリスでは社会階層に応じた3種類の中等学校が存在したため,20世紀になってそれらの中等学校を統合する統一学校運動によって設置された中等学校をコンプリヘンシブ・スクールと呼び,この学校が各国に影響を与えて総合制学校が設置されるようになった。 | 一般に総合制学校は普通教育から職業教育まで多様な教育課程を備えた学校。元来,イギリスでは社会階層に応じた3種類の中等学校が存在したため,20世紀になってそれらの中等学校を統合する統一学校運動によって設置された中等学校をコンプリヘンシブ・スクールと呼び,この学校が各国に影響を与えて総合制学校が設置されるようになった。 | ||
- | コンプリヘンシブ・スクール運動の始まり | + | |
+ | == コンプリヘンシブ・スクール運動の始まり == | ||
1944年教育法の成立により、はじめて「すべての者に中等教育を」の原理が実現された。その意味でこの法律は画期的な意味を持つが、その半面でこの法律はまた多くの限界を持っていた。最大の問題点は実施計画が不明確であり、結局のところ複線型教育システムである三分岐型中等教育システムを形成することになった点である。すでに第1期の時代から労組・労働党を中心とする勢力は単線型の中等教育(コンプリヘンシブ・スクール型)をめざしていたが、44年教育法は「中等教育は11歳以上のすべての子供たちにその年令・能力・適性にしたがって提供されねばならない」と記すのみであった。イギリスでも米国と同様に教育の権限は地方当局にあり、理論上は地方当局がコンプリヘンシブ・スクール型の中等教育を導入することもできたし、労働党色の強いロンドンなどではそうした意見も強かったのであるが、大勢は教育省の訓令やパンフレットにより三分岐型中等教育を押しつけられる事となったのである。1945年からは労働党政権にとなったのであるが、それにもかかわらずこうした状況であったのである。三分岐型中等教育システムとは11歳のときのイレブンプラスと呼ばれる試験の結果等で、とくに優秀な生徒がグラマースクールに、その次クラスの生徒がテクニカルスクールに、残りの生徒がモダーンスクールに振り分けられる制度である。グラマースクールは高等教育に通じており、モダーンスクールは就職組である。これに対して、コンプリヘンシブ・スクールはこれらの3本立ての中等学校を単一化し統合しようというものである。44年教育法の第二の限界は「パブリックスクール」(直訳すれば公立学校となってしまうが、周知のようにイートン、ハローなどのエリート私立学校のことを指す)が法によってなにも手をつけられずに温存されたことである。その他離学年令を16歳とする時期がもりこまれなかった点(そのために離学年令を15歳とすることは1947年に実施されたが、16歳とするのはやっと1972年に実施されることとなった)、また、15歳から18歳までの青年に週1日の義務教育を与えるカウンティカレッジと呼ばれる構想が、強い支持を受けていて法政化されたがこれも実施時期が明記されず、結局実施されなかった点等が44年教育法の限界をなしていた。 | 1944年教育法の成立により、はじめて「すべての者に中等教育を」の原理が実現された。その意味でこの法律は画期的な意味を持つが、その半面でこの法律はまた多くの限界を持っていた。最大の問題点は実施計画が不明確であり、結局のところ複線型教育システムである三分岐型中等教育システムを形成することになった点である。すでに第1期の時代から労組・労働党を中心とする勢力は単線型の中等教育(コンプリヘンシブ・スクール型)をめざしていたが、44年教育法は「中等教育は11歳以上のすべての子供たちにその年令・能力・適性にしたがって提供されねばならない」と記すのみであった。イギリスでも米国と同様に教育の権限は地方当局にあり、理論上は地方当局がコンプリヘンシブ・スクール型の中等教育を導入することもできたし、労働党色の強いロンドンなどではそうした意見も強かったのであるが、大勢は教育省の訓令やパンフレットにより三分岐型中等教育を押しつけられる事となったのである。1945年からは労働党政権にとなったのであるが、それにもかかわらずこうした状況であったのである。三分岐型中等教育システムとは11歳のときのイレブンプラスと呼ばれる試験の結果等で、とくに優秀な生徒がグラマースクールに、その次クラスの生徒がテクニカルスクールに、残りの生徒がモダーンスクールに振り分けられる制度である。グラマースクールは高等教育に通じており、モダーンスクールは就職組である。これに対して、コンプリヘンシブ・スクールはこれらの3本立ての中等学校を単一化し統合しようというものである。44年教育法の第二の限界は「パブリックスクール」(直訳すれば公立学校となってしまうが、周知のようにイートン、ハローなどのエリート私立学校のことを指す)が法によってなにも手をつけられずに温存されたことである。その他離学年令を16歳とする時期がもりこまれなかった点(そのために離学年令を15歳とすることは1947年に実施されたが、16歳とするのはやっと1972年に実施されることとなった)、また、15歳から18歳までの青年に週1日の義務教育を与えるカウンティカレッジと呼ばれる構想が、強い支持を受けていて法政化されたがこれも実施時期が明記されず、結局実施されなかった点等が44年教育法の限界をなしていた。 | ||
- | コンプリヘンシブ・スクールの確立 | + | |
+ | == コンプリヘンシブ・スクールの確立== | ||
64年に政権についた労働党政府は65年に通達を出し、すべての地方当局に現存する教育制度をコンプリヘンシブ・スクール型の総合制中等教育へ転換する計画を提出するよう求めた。上述のようにイギリスでは地方当局が教育の主体であり、政府の方針がすべての地方で貫徹されるわけではないが、第2期の運動の成果もあり大多数の地方当局はコンプリヘンシブ・スクール化を進めた。18歳まで一貫した学校を創った地域もあれば、13歳または14歳の段階で分ける2段階制度をとった地域もあるが、ともかくもコンプリヘンシブ・スクール化は進行し、70年代はふたたび保守党政権となりあのマーガレット・サッチャーが教育相となったのであるが、彼女もコンプリヘンシブ・スクール化の動きをもはや止めることはできなかった。60年代後半には他の点でも大きな動きが見られた。初等教育においてそれまでは、能力別学級編成(Streaming )が一般的におこなわれていたが、これを廃止しようとする運動がもりあがり成功したのである。さらにこの能力別学級廃止の運動は総合化された中等学校においても発展していった。 | 64年に政権についた労働党政府は65年に通達を出し、すべての地方当局に現存する教育制度をコンプリヘンシブ・スクール型の総合制中等教育へ転換する計画を提出するよう求めた。上述のようにイギリスでは地方当局が教育の主体であり、政府の方針がすべての地方で貫徹されるわけではないが、第2期の運動の成果もあり大多数の地方当局はコンプリヘンシブ・スクール化を進めた。18歳まで一貫した学校を創った地域もあれば、13歳または14歳の段階で分ける2段階制度をとった地域もあるが、ともかくもコンプリヘンシブ・スクール化は進行し、70年代はふたたび保守党政権となりあのマーガレット・サッチャーが教育相となったのであるが、彼女もコンプリヘンシブ・スクール化の動きをもはや止めることはできなかった。60年代後半には他の点でも大きな動きが見られた。初等教育においてそれまでは、能力別学級編成(Streaming )が一般的におこなわれていたが、これを廃止しようとする運動がもりあがり成功したのである。さらにこの能力別学級廃止の運動は総合化された中等学校においても発展していった。 | ||
- | コンプリヘンシブ・スクールの問題 | + | |
+ | ==コンプリヘンシブ・スクールの問題 == | ||
学校数全体が増え、コンプリヘンシブ・スクールの割合も増加しているが、政府財界等には、教育一般とりわけコンプリヘンシブ・スクールへの強い批判が存在するようになってきた。またイギリスで深刻な多数の青年失業者の問題も、教育制度に暗い影を与えている。まず政府は一部の保守党地方当局の地域でコンプリヘンシブ・スクールを、グラマースクールとモダーンスクールといった分岐制度に再変更しようとした。しかしながら、そうした地域の人々は、分岐教育支持が多いと考えられていた中産階層勢力の強い地域を含め総合制教育システム(コンプリヘンシブ・スクール)を支持し分岐教育復活のための選抜制度を拒絶したのである。この結果政府は戦略を改め、分岐教育の復活でなく、コンプリヘンシブ・スクール間あるいは個々のコンプリヘンシブ・スクールの中に格差を拡大させる方向をとることとなった。能力別学級編成を行い、上位20%程度をアカデミッククラスとし、第二グループを技術クラスに、底辺のグループを職業クラスに位置付けようというわけである。この他「底辺40%」とジョセフ教育相(産業相から教育相に就任したサッチャリズム推進派)が呼ぶ者に対する特別な教育計画や、16歳での試験の実施なども実質的に分岐教育を復活させようという試みであろう。このようにすべての者のための(単一の)中等教育を求める方向と、分岐教育を推進しようと方向の対立はイギリスにおいて古くて新しい問題なのであり、現在も問題でありつづけているわけである。 | 学校数全体が増え、コンプリヘンシブ・スクールの割合も増加しているが、政府財界等には、教育一般とりわけコンプリヘンシブ・スクールへの強い批判が存在するようになってきた。またイギリスで深刻な多数の青年失業者の問題も、教育制度に暗い影を与えている。まず政府は一部の保守党地方当局の地域でコンプリヘンシブ・スクールを、グラマースクールとモダーンスクールといった分岐制度に再変更しようとした。しかしながら、そうした地域の人々は、分岐教育支持が多いと考えられていた中産階層勢力の強い地域を含め総合制教育システム(コンプリヘンシブ・スクール)を支持し分岐教育復活のための選抜制度を拒絶したのである。この結果政府は戦略を改め、分岐教育の復活でなく、コンプリヘンシブ・スクール間あるいは個々のコンプリヘンシブ・スクールの中に格差を拡大させる方向をとることとなった。能力別学級編成を行い、上位20%程度をアカデミッククラスとし、第二グループを技術クラスに、底辺のグループを職業クラスに位置付けようというわけである。この他「底辺40%」とジョセフ教育相(産業相から教育相に就任したサッチャリズム推進派)が呼ぶ者に対する特別な教育計画や、16歳での試験の実施なども実質的に分岐教育を復活させようという試みであろう。このようにすべての者のための(単一の)中等教育を求める方向と、分岐教育を推進しようと方向の対立はイギリスにおいて古くて新しい問題なのであり、現在も問題でありつづけているわけである。 |
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コンプリヘンシブ・スクールとは
一般に総合制学校は普通教育から職業教育まで多様な教育課程を備えた学校。元来,イギリスでは社会階層に応じた3種類の中等学校が存在したため,20世紀になってそれらの中等学校を統合する統一学校運動によって設置された中等学校をコンプリヘンシブ・スクールと呼び,この学校が各国に影響を与えて総合制学校が設置されるようになった。
コンプリヘンシブ・スクール運動の始まり
1944年教育法の成立により、はじめて「すべての者に中等教育を」の原理が実現された。その意味でこの法律は画期的な意味を持つが、その半面でこの法律はまた多くの限界を持っていた。最大の問題点は実施計画が不明確であり、結局のところ複線型教育システムである三分岐型中等教育システムを形成することになった点である。すでに第1期の時代から労組・労働党を中心とする勢力は単線型の中等教育(コンプリヘンシブ・スクール型)をめざしていたが、44年教育法は「中等教育は11歳以上のすべての子供たちにその年令・能力・適性にしたがって提供されねばならない」と記すのみであった。イギリスでも米国と同様に教育の権限は地方当局にあり、理論上は地方当局がコンプリヘンシブ・スクール型の中等教育を導入することもできたし、労働党色の強いロンドンなどではそうした意見も強かったのであるが、大勢は教育省の訓令やパンフレットにより三分岐型中等教育を押しつけられる事となったのである。1945年からは労働党政権にとなったのであるが、それにもかかわらずこうした状況であったのである。三分岐型中等教育システムとは11歳のときのイレブンプラスと呼ばれる試験の結果等で、とくに優秀な生徒がグラマースクールに、その次クラスの生徒がテクニカルスクールに、残りの生徒がモダーンスクールに振り分けられる制度である。グラマースクールは高等教育に通じており、モダーンスクールは就職組である。これに対して、コンプリヘンシブ・スクールはこれらの3本立ての中等学校を単一化し統合しようというものである。44年教育法の第二の限界は「パブリックスクール」(直訳すれば公立学校となってしまうが、周知のようにイートン、ハローなどのエリート私立学校のことを指す)が法によってなにも手をつけられずに温存されたことである。その他離学年令を16歳とする時期がもりこまれなかった点(そのために離学年令を15歳とすることは1947年に実施されたが、16歳とするのはやっと1972年に実施されることとなった)、また、15歳から18歳までの青年に週1日の義務教育を与えるカウンティカレッジと呼ばれる構想が、強い支持を受けていて法政化されたがこれも実施時期が明記されず、結局実施されなかった点等が44年教育法の限界をなしていた。
コンプリヘンシブ・スクールの確立
64年に政権についた労働党政府は65年に通達を出し、すべての地方当局に現存する教育制度をコンプリヘンシブ・スクール型の総合制中等教育へ転換する計画を提出するよう求めた。上述のようにイギリスでは地方当局が教育の主体であり、政府の方針がすべての地方で貫徹されるわけではないが、第2期の運動の成果もあり大多数の地方当局はコンプリヘンシブ・スクール化を進めた。18歳まで一貫した学校を創った地域もあれば、13歳または14歳の段階で分ける2段階制度をとった地域もあるが、ともかくもコンプリヘンシブ・スクール化は進行し、70年代はふたたび保守党政権となりあのマーガレット・サッチャーが教育相となったのであるが、彼女もコンプリヘンシブ・スクール化の動きをもはや止めることはできなかった。60年代後半には他の点でも大きな動きが見られた。初等教育においてそれまでは、能力別学級編成(Streaming )が一般的におこなわれていたが、これを廃止しようとする運動がもりあがり成功したのである。さらにこの能力別学級廃止の運動は総合化された中等学校においても発展していった。
コンプリヘンシブ・スクールの問題
学校数全体が増え、コンプリヘンシブ・スクールの割合も増加しているが、政府財界等には、教育一般とりわけコンプリヘンシブ・スクールへの強い批判が存在するようになってきた。またイギリスで深刻な多数の青年失業者の問題も、教育制度に暗い影を与えている。まず政府は一部の保守党地方当局の地域でコンプリヘンシブ・スクールを、グラマースクールとモダーンスクールといった分岐制度に再変更しようとした。しかしながら、そうした地域の人々は、分岐教育支持が多いと考えられていた中産階層勢力の強い地域を含め総合制教育システム(コンプリヘンシブ・スクール)を支持し分岐教育復活のための選抜制度を拒絶したのである。この結果政府は戦略を改め、分岐教育の復活でなく、コンプリヘンシブ・スクール間あるいは個々のコンプリヘンシブ・スクールの中に格差を拡大させる方向をとることとなった。能力別学級編成を行い、上位20%程度をアカデミッククラスとし、第二グループを技術クラスに、底辺のグループを職業クラスに位置付けようというわけである。この他「底辺40%」とジョセフ教育相(産業相から教育相に就任したサッチャリズム推進派)が呼ぶ者に対する特別な教育計画や、16歳での試験の実施なども実質的に分岐教育を復活させようという試みであろう。このようにすべての者のための(単一の)中等教育を求める方向と、分岐教育を推進しようと方向の対立はイギリスにおいて古くて新しい問題なのであり、現在も問題でありつづけているわけである。
参考文献 ・osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk121a1.htm ・kotobank.jp/word