南アフリカ共和国

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== 概要 == == 概要 ==
南アフリカ共和国は、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家である。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面している。首都はプレトリア、イギリス連邦加盟国。公用語はアフリカーンス語、英語、バントゥー諸語(ズールー語、コサ語、北ソト語、ソト語、スワジ語、南ンデベレ語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語)の11言語であり、国内で最も多くの人に話されている言葉は東部で話されているズールー語であるが国内人口比22%程度である。アフリカーンス語はオランダ植民地時代にオランダ語と現地の言葉が融合した言語で西部の広い地域で話されている。英語は全人口の8.2%の人に話されているに過ぎない。しかし、イギリスの植民地時代に普及した英語が共通語的役割を果たし国会でも英語が使われている。かつては、アフリカーンス語も英語とともに共通語としての役割を担っていたが、アパルトヘイト撤廃後、その地位は低下している。 南アフリカ共和国は、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家である。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面している。首都はプレトリア、イギリス連邦加盟国。公用語はアフリカーンス語、英語、バントゥー諸語(ズールー語、コサ語、北ソト語、ソト語、スワジ語、南ンデベレ語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語)の11言語であり、国内で最も多くの人に話されている言葉は東部で話されているズールー語であるが国内人口比22%程度である。アフリカーンス語はオランダ植民地時代にオランダ語と現地の言葉が融合した言語で西部の広い地域で話されている。英語は全人口の8.2%の人に話されているに過ぎない。しかし、イギリスの植民地時代に普及した英語が共通語的役割を果たし国会でも英語が使われている。かつては、アフリカーンス語も英語とともに共通語としての役割を担っていたが、アパルトヘイト撤廃後、その地位は低下している。
 + 人種の割合は黒人 (77%)、白人 (9.5%)、カラード(白人と、サン人やコイコイ人など先住民族との混血を中心にした混成グループで、奴隷として連れられてきたインドネシアやマレー系の住民との混血も含まれる。使用言語はおもにアフリカーンス語 9%)、インド系(印僑 3%)。白人の多くは、イギリス系とアフリカーナーに二分される。宗教は8割の国民がキリスト教で、残りはヒンドゥー教、イスラム教などである。ユダヤ教の信者や無宗教者も少数存在する。
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 +== 歴史 ==
 +南アフリカには、紀元前数千年頃から、もともと狩猟民族のサン族(ブッシュマン)と同系統で牧畜民族のコイ族(ホッテントット)が住んでいたと言われている。また、300~900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していた現在のバンツー系のアフリカン(黒人)が南下してほぼ全域に定着した。ヨーロッパで大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達し、1497年には同じポルトガルのバァスコ・ダ・ガマがナタールを発見した。ヨーロッパ人の入植は、ずっとあとになった1652年にオランダ人のヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東洋貿易の中継基地として、ケープタウンに居留地をつくったのが始まりである。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されており、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。オランダからの移民たちは、自らをボーア(オランダ語で農民)と称して入植地を開拓していった。このボーア人の勢力の拡大によってサン族やコイ族などの先住アフリカ人との争いも起きたのである。18世紀末から19世紀の初頭にかけて、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こると、喜望峰をインド航路の重要拠点と認識したイギリスは、金やダイヤモンドの鉱脈を狙って、この地を占領しようとした。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年にイギリスのウィリアム・ベレスフォード将軍がケープタウンを占領した。ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭に一旦はオランダに返還したが、1814年のウイーン会議でケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、1820年には大量のイギリス人移民が到着し、総督がおかれて本格的なイギリス支配が始まったのである。イギリスの植民地支配によって公用語が英語になり、イギリスの司法制度が持ち込まれイギリスの影響が強まっていった。イギリス人の増加に伴い、ボーア人は次第に差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになったのである。1833年にイギリス本国で奴隷制度が廃止され植民地にも適用されると、多くの奴隷労働力に依存してきたボーア人(アフリカーナ)の農業主は反発して、新天地を求めて北方へ移動した。1838年にナタールで先住アフリカ人民族のズールー族(黒人の一部族)と衝突し、”血の戦い”で勝利してナタール共和国を建国した。数十年後、スワジ人、ツワナ人などと戦い、1852年にトランスバール共和国を、1854年にはオレンジ自由国を建国した。しかし、南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から2度のボーア戦争(第一次ボーア戦争・第二次ボーア戦争)に発展し、最終的にイギリスの手に落ち、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。その後、イギリスはボーア人との和解をはかり自治権を与え、1910年には南アフリカ連邦(ナタール州、トランスバール州、オレンジ自治州、ケープ州)を設立し、初代首相にボーア人からルイ・ボータが就任した。ボーア人は新国家誕生に伴い、アフリカーナと称し、民族意識を強めていった。この影響で、黒人に対して1911年に鉱山労働法、1913年には原住民土地法といった人種差別法を立法化していき、また、英語とともにオランダ語を母体とするアフリカーンス語を公用語と定めた。第二次世界大戦後、世界各国で独立運動が起こると、南アフリカでも人種差別が起こるようになった。少数派の白人がアパルトヘイトを制定し、分離政策を進めていったのである。当時、人種平等を求める黒人による構成された南アフリカ民族会議(ANC)のメンバーだった前大統領のネルソン・マンデラは、1957年に逮捕され拘留され、南アフリカは経済的に苦境にたたされた。しかし、1989年にフレデリック・デ・クラークが大統領に就任すると、黒人との対話路線が一気に進んだ。1990年にはマンデラが釈放され、1991年にはアパルトヘイトが廃止された。これにより、経済が回復し、1994年4月、全人種参加による南アフリカ共和国の総選挙がおこなわれ、人種平等を求めるアフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が「黒人最初の大統領」に就任したのである。
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 +== 気候 ==
 +国土全体の気温は、夏と冬で気温差が大きいのが特徴である。内陸部では0度を下回ることもあり、ドラケンスバーグ山脈付近では雪が降ることもある。東部の海岸は高度も低く、暖流のモザンビーク海流が流れているために暖かいが、西部の海岸は寒流のベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらない。また、東部は季節風の影響で夏に雨が降るが、南西部は地中海性気候の影響で夏は乾燥、冬に雨が多い。南半球に位置すると、北に行くほど暑くなるが、高原地帯のためそれほど暑くはならない。
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 +== 国際的なスポーツ国 ==
 +イギリスからもたされたサッカーやラグビーの人気が高く、近年ではテニスの人気も高まっている。多くの自然に囲まれ、多くのスポーツが行われている。また、2010年には、アフリカで初めてのFIFAワールドカップ開催され、国家の経済発展や国民の共通意識の構築などさなざまな期待がある。しかし一方で、治安の悪さによる問題が重要視されている。
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 +参考文献・資料:南ア共和国の内幕 アパルトヘイトの終焉まで 伊藤正孝著 中央公論社
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 +        http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7870/

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概要

南アフリカ共和国は、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家である。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面している。首都はプレトリア、イギリス連邦加盟国。公用語はアフリカーンス語、英語、バントゥー諸語(ズールー語、コサ語、北ソト語、ソト語、スワジ語、南ンデベレ語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語)の11言語であり、国内で最も多くの人に話されている言葉は東部で話されているズールー語であるが国内人口比22%程度である。アフリカーンス語はオランダ植民地時代にオランダ語と現地の言葉が融合した言語で西部の広い地域で話されている。英語は全人口の8.2%の人に話されているに過ぎない。しかし、イギリスの植民地時代に普及した英語が共通語的役割を果たし国会でも英語が使われている。かつては、アフリカーンス語も英語とともに共通語としての役割を担っていたが、アパルトヘイト撤廃後、その地位は低下している。  人種の割合は黒人 (77%)、白人 (9.5%)、カラード(白人と、サン人やコイコイ人など先住民族との混血を中心にした混成グループで、奴隷として連れられてきたインドネシアやマレー系の住民との混血も含まれる。使用言語はおもにアフリカーンス語 9%)、インド系(印僑 3%)。白人の多くは、イギリス系とアフリカーナーに二分される。宗教は8割の国民がキリスト教で、残りはヒンドゥー教、イスラム教などである。ユダヤ教の信者や無宗教者も少数存在する。


歴史

南アフリカには、紀元前数千年頃から、もともと狩猟民族のサン族(ブッシュマン)と同系統で牧畜民族のコイ族(ホッテントット)が住んでいたと言われている。また、300~900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していた現在のバンツー系のアフリカン(黒人)が南下してほぼ全域に定着した。ヨーロッパで大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達し、1497年には同じポルトガルのバァスコ・ダ・ガマがナタールを発見した。ヨーロッパ人の入植は、ずっとあとになった1652年にオランダ人のヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東洋貿易の中継基地として、ケープタウンに居留地をつくったのが始まりである。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されており、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。オランダからの移民たちは、自らをボーア(オランダ語で農民)と称して入植地を開拓していった。このボーア人の勢力の拡大によってサン族やコイ族などの先住アフリカ人との争いも起きたのである。18世紀末から19世紀の初頭にかけて、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こると、喜望峰をインド航路の重要拠点と認識したイギリスは、金やダイヤモンドの鉱脈を狙って、この地を占領しようとした。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年にイギリスのウィリアム・ベレスフォード将軍がケープタウンを占領した。ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭に一旦はオランダに返還したが、1814年のウイーン会議でケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、1820年には大量のイギリス人移民が到着し、総督がおかれて本格的なイギリス支配が始まったのである。イギリスの植民地支配によって公用語が英語になり、イギリスの司法制度が持ち込まれイギリスの影響が強まっていった。イギリス人の増加に伴い、ボーア人は次第に差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになったのである。1833年にイギリス本国で奴隷制度が廃止され植民地にも適用されると、多くの奴隷労働力に依存してきたボーア人(アフリカーナ)の農業主は反発して、新天地を求めて北方へ移動した。1838年にナタールで先住アフリカ人民族のズールー族(黒人の一部族)と衝突し、”血の戦い”で勝利してナタール共和国を建国した。数十年後、スワジ人、ツワナ人などと戦い、1852年にトランスバール共和国を、1854年にはオレンジ自由国を建国した。しかし、南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から2度のボーア戦争(第一次ボーア戦争・第二次ボーア戦争)に発展し、最終的にイギリスの手に落ち、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。その後、イギリスはボーア人との和解をはかり自治権を与え、1910年には南アフリカ連邦(ナタール州、トランスバール州、オレンジ自治州、ケープ州)を設立し、初代首相にボーア人からルイ・ボータが就任した。ボーア人は新国家誕生に伴い、アフリカーナと称し、民族意識を強めていった。この影響で、黒人に対して1911年に鉱山労働法、1913年には原住民土地法といった人種差別法を立法化していき、また、英語とともにオランダ語を母体とするアフリカーンス語を公用語と定めた。第二次世界大戦後、世界各国で独立運動が起こると、南アフリカでも人種差別が起こるようになった。少数派の白人がアパルトヘイトを制定し、分離政策を進めていったのである。当時、人種平等を求める黒人による構成された南アフリカ民族会議(ANC)のメンバーだった前大統領のネルソン・マンデラは、1957年に逮捕され拘留され、南アフリカは経済的に苦境にたたされた。しかし、1989年にフレデリック・デ・クラークが大統領に就任すると、黒人との対話路線が一気に進んだ。1990年にはマンデラが釈放され、1991年にはアパルトヘイトが廃止された。これにより、経済が回復し、1994年4月、全人種参加による南アフリカ共和国の総選挙がおこなわれ、人種平等を求めるアフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が「黒人最初の大統領」に就任したのである。


気候

国土全体の気温は、夏と冬で気温差が大きいのが特徴である。内陸部では0度を下回ることもあり、ドラケンスバーグ山脈付近では雪が降ることもある。東部の海岸は高度も低く、暖流のモザンビーク海流が流れているために暖かいが、西部の海岸は寒流のベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらない。また、東部は季節風の影響で夏に雨が降るが、南西部は地中海性気候の影響で夏は乾燥、冬に雨が多い。南半球に位置すると、北に行くほど暑くなるが、高原地帯のためそれほど暑くはならない。


国際的なスポーツ国

イギリスからもたされたサッカーやラグビーの人気が高く、近年ではテニスの人気も高まっている。多くの自然に囲まれ、多くのスポーツが行われている。また、2010年には、アフリカで初めてのFIFAワールドカップ開催され、国家の経済発展や国民の共通意識の構築などさなざまな期待がある。しかし一方で、治安の悪さによる問題が重要視されている。



参考文献・資料:南ア共和国の内幕 アパルトヘイトの終焉まで 伊藤正孝著 中央公論社                           http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7870/


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