マゼラン
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2010年2月11日 (木) 21:22の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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== 航海 == | == 航海 == | ||
- | 1505年25才でアルメイダの艦隊に参加して、インドへ初の航海。その後、1509年、セケイラの艦隊でマラッカを訪問して航海の経験を積むようになる。1511年、マラッカ攻略に参加し、7年間におよびインド洋方面で活躍した。エジプト、インドの要所の制圧やインド沿岸の支配権の獲得、マラッカの領土化などのポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは1512年ポルトガルのリスボンへ帰国した。南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はアレキサンドリアやベネチアに代わる商業都市となっており、10年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌していた。マヌエル王家はヨーロッパで、もっとも富める君主になりつつあった。母国へ帰国したマゼランは、あまりにも変貌した港町リスボンの姿に驚かされると同時に、ひそかに財宝をかき集める高級貴族たちとは裏はらに、インドやマラッカにおける功績をたたえてもらえるわけでもなく、昔ながらの最下級貴族の一人として扱われたにすぎなかったのである。マゼランは、自身の経験を活かしてモルッカ諸島(香辛料の産地)への西回り航路開拓のために、船長にしてもらえるように、マヌエル王に要請したが断られた。1517年にスペインに移り、ポルトガルで叶えられなかった野望を遂げるべく | + | 1505年25才でアルメイダの艦隊に参加して、インドへ初の航海。その後、1509年、セケイラの艦隊でマラッカを訪問して航海の経験を積むようになる。1511年、マラッカ攻略に参加し、7年間におよびインド洋方面で活躍した。エジプト、インドの要所の制圧やインド沿岸の支配権の獲得、マラッカの領土化などのポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは1512年ポルトガルのリスボンへ帰国した。南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はアレキサンドリアやベネチアに代わる商業都市となっており、10年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌していた。マヌエル王家はヨーロッパで、もっとも富める君主になりつつあった。母国へ帰国したマゼランは、あまりにも変貌した港町リスボンの姿に驚かされると同時に、ひそかに財宝をかき集める高級貴族たちとは裏はらに、インドやマラッカにおける功績をたたえてもらえるわけでもなく、昔ながらの最下級貴族の一人として扱われたにすぎなかったのである。マゼランは、自身の経験を活かしてモルッカ諸島(香辛料の産地)への西回り航路開拓のために、船長にしてもらえるように、マヌエル王に要請したが断られた。1517年にスペインに移り、ポルトガルで叶えられなかった野望を遂げるべくスペイン王・カルロス1世に面会したマゼランは、モルッカ諸島への西回り航路を熱心に説明し、カルロス1世はこれに大いに心を動かされ、マゼランを艦隊の長に任命した。1519年9月20日、5隻の船隊(ヴィクトリア号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、サンティアゴ号、旗艦トリニダー号)と237人の乗組員を率いてサンルカル・デ・バラメダ港を出帆した。この遠征隊の目的は、当時とても貴重なものであった香辛料の産地であるモルッカ諸島に到着するため、大西洋と太平洋を結ぶ新たな航路を発見することにあった。大西洋を横断した後、南アメリカ大陸に沿って南下して行き、1520年1月9日、ラプラタ川の河口に到着した。マゼランは、ここが太平洋に出る海峡だと思い、希望をかけた海峡(エル・パソ)探索が行われたが、失敗に終わった。1520年9月20日、マゼラン海峡(南アメリカ大陸南部)を発見、ヴィクトリア号他2隻が通過し、南太平洋の横断という偉業を成し遂げた。太平洋に入ってからは不毛の無人島等は発見したものの、補給が出来ず極度の飢餓と壊血病に苦しめられた。99日目に小島を発見し食料を補給することが出来たが、住民の盗癖にあい上陸して焼き討ちをかけて住民7人を殺害し、ラドロネス(泥棒)諸島(グアムとも言われている)と名付けた。この航海の間は嵐に遭わなかったために、この海を太平洋(マール・パチフィコ、平和の海)と名づけたと言われている。その7日後の1521年3月17日、フィリッピンのレイテ湾のサマール島南のオモンオン(ホモンホモン)島に上陸した。その後、セブ島に向かい住民の服従策に失敗し、1521年4月27日、マゼランはマクタン島で「ラプ・ラプ」と浅瀬の白兵戦で交戦中に41才で戦死したのである。残された部下たちが、目的地のマルク(香料)諸島に向かい、そこで香料を積荷したのち、スペインに直行、1522年9月6日、生存者18名が出発したサンルカル港に帰着した。 |
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+ | == 世界一周後 == | ||
+ | 1521年、マゼランが発見した群島(フィリピン)は、その後スペインの植民地となり、当時の皇太子フェリペにちなんで「フィリピン」と名付けられたと言われている。また、航海後、航海日誌が1日ずれていたこともあって、地球が丸いことが完全に証明された。5隻の船隊(ヴィクトリア号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、サンティアゴ号、旗艦トリニダー号)が出帆したが、結局、ビクトリア号のみが世界一周を達成している。 | ||
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+ | 参考文献・資料:http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse353.html | ||
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+ | マゼラン 関楠生・河原忠彦訳 みすず書房 | ||
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最新版
概要
マゼランは、ポルトガルのオポルト付近で生まれた探検家。本名はフェルナンド・マゼランで、ヨーロッパから初めて西回りでの太平洋到着、南アメリカ大陸の発見によって、史上初めて世界一周を成し遂げた人物として有名である。しかし、マゼランは途中、フィリピンのマグダン島の戦いで戦死しその部下18名が航海を最後まで成し遂げたので、正確にはマゼラン自身が初めて世界一周を成し遂げたと言うより、マゼランの意志を受け継いだ部下たちが初めて世界一周を成し遂げたと言ったほうが妥当である。
航海
1505年25才でアルメイダの艦隊に参加して、インドへ初の航海。その後、1509年、セケイラの艦隊でマラッカを訪問して航海の経験を積むようになる。1511年、マラッカ攻略に参加し、7年間におよびインド洋方面で活躍した。エジプト、インドの要所の制圧やインド沿岸の支配権の獲得、マラッカの領土化などのポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは1512年ポルトガルのリスボンへ帰国した。南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はアレキサンドリアやベネチアに代わる商業都市となっており、10年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌していた。マヌエル王家はヨーロッパで、もっとも富める君主になりつつあった。母国へ帰国したマゼランは、あまりにも変貌した港町リスボンの姿に驚かされると同時に、ひそかに財宝をかき集める高級貴族たちとは裏はらに、インドやマラッカにおける功績をたたえてもらえるわけでもなく、昔ながらの最下級貴族の一人として扱われたにすぎなかったのである。マゼランは、自身の経験を活かしてモルッカ諸島(香辛料の産地)への西回り航路開拓のために、船長にしてもらえるように、マヌエル王に要請したが断られた。1517年にスペインに移り、ポルトガルで叶えられなかった野望を遂げるべくスペイン王・カルロス1世に面会したマゼランは、モルッカ諸島への西回り航路を熱心に説明し、カルロス1世はこれに大いに心を動かされ、マゼランを艦隊の長に任命した。1519年9月20日、5隻の船隊(ヴィクトリア号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、サンティアゴ号、旗艦トリニダー号)と237人の乗組員を率いてサンルカル・デ・バラメダ港を出帆した。この遠征隊の目的は、当時とても貴重なものであった香辛料の産地であるモルッカ諸島に到着するため、大西洋と太平洋を結ぶ新たな航路を発見することにあった。大西洋を横断した後、南アメリカ大陸に沿って南下して行き、1520年1月9日、ラプラタ川の河口に到着した。マゼランは、ここが太平洋に出る海峡だと思い、希望をかけた海峡(エル・パソ)探索が行われたが、失敗に終わった。1520年9月20日、マゼラン海峡(南アメリカ大陸南部)を発見、ヴィクトリア号他2隻が通過し、南太平洋の横断という偉業を成し遂げた。太平洋に入ってからは不毛の無人島等は発見したものの、補給が出来ず極度の飢餓と壊血病に苦しめられた。99日目に小島を発見し食料を補給することが出来たが、住民の盗癖にあい上陸して焼き討ちをかけて住民7人を殺害し、ラドロネス(泥棒)諸島(グアムとも言われている)と名付けた。この航海の間は嵐に遭わなかったために、この海を太平洋(マール・パチフィコ、平和の海)と名づけたと言われている。その7日後の1521年3月17日、フィリッピンのレイテ湾のサマール島南のオモンオン(ホモンホモン)島に上陸した。その後、セブ島に向かい住民の服従策に失敗し、1521年4月27日、マゼランはマクタン島で「ラプ・ラプ」と浅瀬の白兵戦で交戦中に41才で戦死したのである。残された部下たちが、目的地のマルク(香料)諸島に向かい、そこで香料を積荷したのち、スペインに直行、1522年9月6日、生存者18名が出発したサンルカル港に帰着した。
世界一周後
1521年、マゼランが発見した群島(フィリピン)は、その後スペインの植民地となり、当時の皇太子フェリペにちなんで「フィリピン」と名付けられたと言われている。また、航海後、航海日誌が1日ずれていたこともあって、地球が丸いことが完全に証明された。5隻の船隊(ヴィクトリア号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、サンティアゴ号、旗艦トリニダー号)が出帆したが、結局、ビクトリア号のみが世界一周を達成している。
参考文献・資料:http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse353.html
http://heavensdrive2006.blog59.fc2.com/blog-entry-109.html
マゼラン 関楠生・河原忠彦訳 みすず書房