近藤勇
出典: Jinkawiki
2010年2月13日 (土) 02:27の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走し、その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別する。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。 | 鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走し、その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別する。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。 | ||
- | しかし、大久保が近藤と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され、捕縛された。その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じた。薩摩藩は京都において正式な裁判を求めたが、長州藩は坂本竜馬を暗殺したのは新撰組であると主張し、策謀によって近藤の死刑を決定してしまう。結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された。享年35歳(満33歳没)。首は板橋と大坂の千日前[要出典]、京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明となっている。 | + | しかし、大久保が近藤と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され、捕縛された。その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じた。薩摩藩は京都において正式な裁判を求めたが、長州藩は坂本竜馬を暗殺したのは新撰組であると主張し、策謀によって近藤の死刑を決定してしまう。結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された。享年35歳(満33歳没)。首は板橋と大坂の千日前、京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明となっている。 |
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近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月9日生まれ(1834年11月9日) ~ 慶応4年4月25日没(1868年5月17日))は、新選組局長。晩年は幕臣。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。
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出身地
武蔵国多摩郡上石原村 →現在の東京都調布市野水(北西部に位置)に相当する。戦時中の調布飛行場延長工事により生家が取り壊されている。
生い立ち
農民宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。宮川夫妻には勝五郎の他に、長女・リエ(近藤の生まれる2年前に死去)、長男・音五郎、次男・粂蔵(粂次郎)がいた。出身地武蔵国多摩郡上石原村は現在の東京都調布市野水(北西部に位置)に相当する。戦時中の調布飛行場延長工事により生家が取り壊されている。
嘉永元年(1849年)11月11日、勝五郎は天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。盗人を退治するなどして近藤周助に認められ、周助の実家である島崎家へ養子に入り、島崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、島崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。万延元年(1860年)に清水家家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。翌年8月には府中六所宮にて、天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。また、文久二年(1862年)には、長女・たまが誕生した。
新撰組局長になるまで
文久三年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一向と共に京都に向けて出発した。中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留する。京都守護職会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。
結成当初の壬生浪士組は運営が円滑に行かず、3月25日に壬生浪士組結成メンバーの一人である殿内義雄は客死した(暗殺説あり)。根岸友山の一派と粕谷新五郎 は脱退し、阿比留栄三郎は病死(暗殺説あり)し、家里次郎は切腹した。これにより壬生浪士組は近藤派と芹沢派の二派閥体制となった。
長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王、会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となった。その後、活躍が認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。また、同年9月16日(一説に18日)、芹沢一派が暗殺されると、近藤勇主導の新体制が構築された。
元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩宮部鼎蔵の同志である古高俊太郎を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた。(池田屋事件)この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。慶応元年(1865年)、永井尚志の供として広島へ赴く。そして慶応三年(1867年)、新選組は幕臣となり、近藤は御目見得以上の格となる。これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、そのなかには土佐藩の参政である後藤象二郎等も挙げられる。
戊辰戦争
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走し、その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別する。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。
しかし、大久保が近藤と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され、捕縛された。その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じた。薩摩藩は京都において正式な裁判を求めたが、長州藩は坂本竜馬を暗殺したのは新撰組であると主張し、策謀によって近藤の死刑を決定してしまう。結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された。享年35歳(満33歳没)。首は板橋と大坂の千日前、京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明となっている。
墓地
近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされるが、一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、同寺に近藤の首塚がある。また東京都三鷹市の龍源寺(先述の出身地、現・調布市野水のすぐ近く)や処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも旧同士だった永倉新八により建立された墓所がある。福島県会津若松市の天寧寺には土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓があり、山形県米沢市の高国寺にも近藤勇の従兄弟近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り埋葬したとされる墓がある。毎年、近藤勇を弔う為に「近藤勇忌」が流山市や会津若松市等で行われている。
参考文献
『フリー百科事典wikipedia 近藤勇』 URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%8B%87
『近藤勇 歴史群像シリーズ』 横田淳著
『図解雑学 近藤勇』 菊池明著
mk