本能寺の変
出典: Jinkawiki
(版間での差分)
2010年2月13日 (土) 10:31の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
2010年2月13日 (土) 10:37の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) 次の差分へ → |
||
13 行 | 13 行 | ||
== 本能寺の変の後 == | == 本能寺の変の後 == | ||
信長を討った明智光秀は、諸大名に協力や同盟を要請する書状を発した。しかし、応ずるものはほとんどなく、孤立していった。後に羽柴秀吉に'''山崎の戦'''で敗戦している。敗れた光秀は逃げる途中で落ち武者狩りにあい落命。こうして秀吉は、信長の仇を討つことに成功した。 | 信長を討った明智光秀は、諸大名に協力や同盟を要請する書状を発した。しかし、応ずるものはほとんどなく、孤立していった。後に羽柴秀吉に'''山崎の戦'''で敗戦している。敗れた光秀は逃げる途中で落ち武者狩りにあい落命。こうして秀吉は、信長の仇を討つことに成功した。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | '''参考文献''' | ||
+ | |||
+ | 『一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史』成美堂出版 | ||
+ | |||
2010年2月13日 (土) 10:37の版
本能寺の変
全国統一目前の信長を襲った異変
1582年、織田信長のもとに、中国地方で毛利家と戦う羽柴秀吉から救援要請が来た。信長はこれを承諾して安土城を出発し、5月29日、わずかな供を連れて京都の本能寺に入った。軍勢の集結を待って6月4日に出発する予定だったようだが、公家や博多商人らと面会し、酒宴や茶会を催しており、今後に対する布石の意味もあったのではないかされている。 6月2日の早朝、本能寺の周囲が突然騒がしくなった。喧嘩と思った信長に調査を命じられた小姓がみたものは、寺を取り囲む軍勢と、明智家の家紋のが入った軍旗であった。織田家の重臣、明智光秀による、信長殺害を狙った謀反である。 1万を超える明智軍に対して、本能寺の織田勢はわずか100。信長は自ら弓矢や槍を取って戦ったが、多勢に無勢、手傷を受けると奥に入り、火を放って自害したといわれている(本能寺の変)。全国統一目前まで迫った英雄のあっけない最期だった。
本能寺の変の後
信長を討った明智光秀は、諸大名に協力や同盟を要請する書状を発した。しかし、応ずるものはほとんどなく、孤立していった。後に羽柴秀吉に山崎の戦で敗戦している。敗れた光秀は逃げる途中で落ち武者狩りにあい落命。こうして秀吉は、信長の仇を討つことに成功した。
参考文献
『一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史』成美堂出版