グーテンベルク3

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-'''グーテンベルクとは'''+== グーテンベルクとは ==
-1398年ごろ-1468年2月3日)はドイツ出身の金属加工職人。1445年頃に活版印刷術を発明[1][2][3]。1455年に初めて旧約・新約聖書(ラテン語版)を印刷したことで知られる。これが『グーテンベルク聖書』である。グーテンベルクの開発した印刷システムは急速に普及して、大量の印刷物を生み出し、ルネサンス期における情報伝播の速度を飛躍的に向上された。+ヨハン・グーテンベルク(Johann Gutenberg 1400?-1468)は、1437年頃から鉛合金活字鋳造による活版印刷機(木製)をブドウ絞り機をヒントにして考案・製作し、1445~1447年ころに鋳造活字による活版印刷を一応完成したと言われている。鉛を主材とする合金によって活字の鋳造を容易にし、黄銅の鋳型と母型を工夫し同一活字の大量鋳造に成功したグーテンベルクの開発した印刷システムは急速に普及して、大量の印刷物を生み出し、ルネサンス期における情報伝播の速度を飛躍的に向上された。
1450年ごろ、グーテンベルクはヨハン・フスト(Johann Fust)なる人物から事業資金をえることに成功した。フストは設備費として800グルデンを貸し付け、二人は共同事業者として新規事業を立ち上げた。彼らが新技術をアピールするために選んだプロジェクトがラテン語聖書の印刷・販売であった。このころ、グーテンベルクは自宅附属の印刷所だけでなく、フストの資金で設立した新しい印刷所の二ヶ所で印刷を行っていたことがわかっている(このことを明らかにしたのは19世紀の研究者カール・ジアツコ (Karl Dziatzko) である)。またその頃フストがペーター・シェッファー(Peter Shöffer von Gernsheim、1430年ごろ-1467年)という青年をグーテンベルクのもとに連れてきた。シェッファーはパリ大学の卒業生で写字生の経験があり、グーテンベルクのもとで印刷術を学んだ(シェッファーはフストの娘クリスティーナと結婚して婿になり、印刷業をビジネスとして成功させることになる)。 1450年ごろ、グーテンベルクはヨハン・フスト(Johann Fust)なる人物から事業資金をえることに成功した。フストは設備費として800グルデンを貸し付け、二人は共同事業者として新規事業を立ち上げた。彼らが新技術をアピールするために選んだプロジェクトがラテン語聖書の印刷・販売であった。このころ、グーテンベルクは自宅附属の印刷所だけでなく、フストの資金で設立した新しい印刷所の二ヶ所で印刷を行っていたことがわかっている(このことを明らかにしたのは19世紀の研究者カール・ジアツコ (Karl Dziatzko) である)。またその頃フストがペーター・シェッファー(Peter Shöffer von Gernsheim、1430年ごろ-1467年)という青年をグーテンベルクのもとに連れてきた。シェッファーはパリ大学の卒業生で写字生の経験があり、グーテンベルクのもとで印刷術を学んだ(シェッファーはフストの娘クリスティーナと結婚して婿になり、印刷業をビジネスとして成功させることになる)。
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グーテンベルクはこの決定にも落胆することなく、再び資金を集めて自宅の印刷所で書籍の印刷を続け、『カトリコン』(1460年ごろ)などの印刷を行っている。ただ、グーテンベルクには印刷日時や印刷者の名前を書物に入れるという発想がなかったため、直接的な年代の確定が困難であった。一方でグーテンベルクを追い出す形になったフストとシェッファーは事業を順調に発展させ、1457年8月15日に出版した『マインツ詩篇』は世界で初めて奥付(コロフォン)に印刷日と印刷者名(フストとシェッファー)を入れた書籍として歴史に残ることになる。 グーテンベルクはこの決定にも落胆することなく、再び資金を集めて自宅の印刷所で書籍の印刷を続け、『カトリコン』(1460年ごろ)などの印刷を行っている。ただ、グーテンベルクには印刷日時や印刷者の名前を書物に入れるという発想がなかったため、直接的な年代の確定が困難であった。一方でグーテンベルクを追い出す形になったフストとシェッファーは事業を順調に発展させ、1457年8月15日に出版した『マインツ詩篇』は世界で初めて奥付(コロフォン)に印刷日と印刷者名(フストとシェッファー)を入れた書籍として歴史に残ることになる。
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 +== グーテンベルクの印刷物 ==
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 +フストとグーテンベルクは二巻本のラテン語聖書(Biblia Sacra)を完成させた。15世紀の記録にはその値段は「二冊で100グルデン」であるという。(「グーテンベルク聖書の行方」、p83)当時の物価で平均的な労働者の二年分の賃金にあたるほど高価なものだったが、それでも写本に比べれば安価であり、写本が一冊をつくるのに一年近くかかることを考えれば大量生産につながる画期的な事業といえた。
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 +1455年に印刷された『グーテンベルク聖書』(行組から『四十二行聖書』と呼ばれる)は完全な形で世界に48セット残っており、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国などに保管されている。日本では慶應義塾大学が所蔵しているが、これはアジアで唯一のものである。グーテンベルク聖書は写本を模して作られたため、後の印刷物のスタンダードである要素を多く欠いている。たとえばページ番号、語間の空白、インデント、段落間の空白などがまだ見られない。2003年の時点で、羊皮紙に印刷された旧約・新約聖書が完全なものが4部、不完全なものが8部ある。紙に印刷されたもので完全なものが17部、不完全なものが19部で合計48部になる。
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 + 貴重書のデジタル化は、資料の保存と提供という図書館がもつ二つの基本的使命から生じる矛盾の解決策となりうる。劣化が進んだ資料を媒体変換によって保存できるだけでなく、デジタル化されたデータを代替物として閲覧に供することで、利用による原資料の劣化の進行も防ぐことができる。さらに、高精細画像を提供したり、検索機能や読み下しなどの付加価値によって原資料以上の情報量を持たせて提供したりすることで、代替物という消極的な意味をこえた、研究や教育の支援のためのより高度な情報提供サービスが可能になると期待できる。グーテンベルクの技術は現在印刷システムの先駆けとなったといえる。
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 +参考文献:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
 +     http://www.gijyutu.com/kyouzai/mokei/ohki2/guten.htm
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 +     http://ci.nii.ac.jp/naid/110003840744

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グーテンベルクとは

ヨハン・グーテンベルク(Johann Gutenberg 1400?-1468)は、1437年頃から鉛合金活字鋳造による活版印刷機(木製)をブドウ絞り機をヒントにして考案・製作し、1445~1447年ころに鋳造活字による活版印刷を一応完成したと言われている。鉛を主材とする合金によって活字の鋳造を容易にし、黄銅の鋳型と母型を工夫し同一活字の大量鋳造に成功したグーテンベルクの開発した印刷システムは急速に普及して、大量の印刷物を生み出し、ルネサンス期における情報伝播の速度を飛躍的に向上された。

1450年ごろ、グーテンベルクはヨハン・フスト(Johann Fust)なる人物から事業資金をえることに成功した。フストは設備費として800グルデンを貸し付け、二人は共同事業者として新規事業を立ち上げた。彼らが新技術をアピールするために選んだプロジェクトがラテン語聖書の印刷・販売であった。このころ、グーテンベルクは自宅附属の印刷所だけでなく、フストの資金で設立した新しい印刷所の二ヶ所で印刷を行っていたことがわかっている(このことを明らかにしたのは19世紀の研究者カール・ジアツコ (Karl Dziatzko) である)。またその頃フストがペーター・シェッファー(Peter Shöffer von Gernsheim、1430年ごろ-1467年)という青年をグーテンベルクのもとに連れてきた。シェッファーはパリ大学の卒業生で写字生の経験があり、グーテンベルクのもとで印刷術を学んだ(シェッファーはフストの娘クリスティーナと結婚して婿になり、印刷業をビジネスとして成功させることになる)。

後に「グーテンベルク聖書」(「四十二行聖書」)と呼ばれる最初の印刷聖書は1455年に完成した。これと前後してフストがグーテンベルクを訴えるという事態が起きた。ゲッティンゲン大学に保管されている『ヘルマスペルガー文書』によれば、フストは以下のように主張している。すなわち、フストが印刷所の設備のためにグーテンベルクに二回にわけて1600グルデンの資金を貸与したが、グーテンベルクは聖書の印刷事業のために貸し付けた資金を別の用途に使っていて、返済の意志がない。であるため貸与金額に利子をつけて2026グルデンの返済を要求するというものであった。裁判所はフストの訴えを認め、グーテンベルクに借金の返済を命じた。しかしグーテンベルクは十分な所持金を持っていなかったため、グーテンベルクの印刷機と活字、印刷中の聖書などがすべて抵当としてフストの手に渡った。

グーテンベルクはこの決定にも落胆することなく、再び資金を集めて自宅の印刷所で書籍の印刷を続け、『カトリコン』(1460年ごろ)などの印刷を行っている。ただ、グーテンベルクには印刷日時や印刷者の名前を書物に入れるという発想がなかったため、直接的な年代の確定が困難であった。一方でグーテンベルクを追い出す形になったフストとシェッファーは事業を順調に発展させ、1457年8月15日に出版した『マインツ詩篇』は世界で初めて奥付(コロフォン)に印刷日と印刷者名(フストとシェッファー)を入れた書籍として歴史に残ることになる。


グーテンベルクの印刷物

フストとグーテンベルクは二巻本のラテン語聖書(Biblia Sacra)を完成させた。15世紀の記録にはその値段は「二冊で100グルデン」であるという。(「グーテンベルク聖書の行方」、p83)当時の物価で平均的な労働者の二年分の賃金にあたるほど高価なものだったが、それでも写本に比べれば安価であり、写本が一冊をつくるのに一年近くかかることを考えれば大量生産につながる画期的な事業といえた。

1455年に印刷された『グーテンベルク聖書』(行組から『四十二行聖書』と呼ばれる)は完全な形で世界に48セット残っており、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国などに保管されている。日本では慶應義塾大学が所蔵しているが、これはアジアで唯一のものである。グーテンベルク聖書は写本を模して作られたため、後の印刷物のスタンダードである要素を多く欠いている。たとえばページ番号、語間の空白、インデント、段落間の空白などがまだ見られない。2003年の時点で、羊皮紙に印刷された旧約・新約聖書が完全なものが4部、不完全なものが8部ある。紙に印刷されたもので完全なものが17部、不完全なものが19部で合計48部になる。

 貴重書のデジタル化は、資料の保存と提供という図書館がもつ二つの基本的使命から生じる矛盾の解決策となりうる。劣化が進んだ資料を媒体変換によって保存できるだけでなく、デジタル化されたデータを代替物として閲覧に供することで、利用による原資料の劣化の進行も防ぐことができる。さらに、高精細画像を提供したり、検索機能や読み下しなどの付加価値によって原資料以上の情報量を持たせて提供したりすることで、代替物という消極的な意味をこえた、研究や教育の支援のためのより高度な情報提供サービスが可能になると期待できる。グーテンベルクの技術は現在印刷システムの先駆けとなったといえる。



参考文献:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF      http://www.gijyutu.com/kyouzai/mokei/ohki2/guten.htm            http://ci.nii.ac.jp/naid/110003840744


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