埴谷雄高
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- | ===人物=== | + | '''埴谷雄高'''(はにや ゆたか,1909年12月19日-1997年2月19日)は日本の作家。本名、般若 豊(はんにゃ ゆたか)。 |
- | 埴谷雄高(はにや ゆたか,1909年12月19日-1997年2月19日)は日本の作家。本名、般若 豊(はんにゃ ゆたか)。 | + | |
未完に終わった日本の文学史上類を見ない思弁的な形而上学長編小説「死霊(しれい)」で有名。評論でも主にドストエフスキー関連で名をなし、座談会も多く行った。 | 未完に終わった日本の文学史上類を見ない思弁的な形而上学長編小説「死霊(しれい)」で有名。評論でも主にドストエフスキー関連で名をなし、座談会も多く行った。 | ||
- | ===影響を受けた作家=== | + | ==人物== |
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+ | 1910年 12月19日(戸籍上は1月1日生まれ) 台湾・新竹にて出生 | ||
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+ | 1919年 黒岩涙香などを読書しはじめる。 | ||
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+ | 1923年 東京・板橋に転居 | ||
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+ | 1925年 結核にかかる。この罹病によりニヒリズムとアナキズムを生じる。 | ||
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+ | 1927年 北海道に転地療養。『オネーギン』、芥川龍之介の自殺に影響を受けニヒリズムに転じる。 | ||
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+ | 1928年 日本大学余科二年に転入。左翼の読書会や演劇活動に従事する際に女優の伊藤としと知り合う。(のち36年に婚約) | ||
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+ | 1929年 マルクス主義に転ずる。 | ||
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+ | 1930年 大学を出席不良により中退。農民闘争社へと入る。 | ||
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+ | 1931年 日本共産党入党。地下生活を送る。8月、左翼組織強化のため京都へ。 | ||
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+ | 1932年 不敬罪および治安維持法により逮捕。独房で西洋の文学、哲学、思想書を読みあさる。特にカントの『純粋理性批判』に影響を受け終生にまで至る思想を方向づける。 | ||
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+ | 1933年 結核で病監へと移動。二月に上申書を提出し、懲役二年執行猶予四年の判決を受け出所。高円寺に住む。 | ||
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+ | 1934年 終生までの住処である吉祥寺に転居。思想の多角化とドイツ語、ギリシア語、ラテン語の取得に励む。結核により徴兵を免れる。 | ||
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+ | 1939年 平野謙、荒正人らと同人雑誌「構想」を創刊。終巻七号まで処女作『不合理ゆえに吾信ず』を掲載。 | ||
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+ | 1940年 3月経済情報社に入社するも、冬に退社。 | ||
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+ | 1941年 「新経済」創刊。編集長を務める。太平洋戦争開戦により12月9日、予防拘禁法で拘引。 | ||
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+ | 1945年 8月15日 新経済の編集長から降り、文学に専念することを家族に宣言。 | ||
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+ | 1946年 1月「近代文学」創刊。『死霊』を連載しはじめる。 | ||
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+ | 1950年 体調に異変を感じる。 | ||
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+ | 1952年 腸結核が発覚。四年間の療養生活をベッドの上で過ごし、病状の重さにより死を覚悟する。 | ||
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+ | 1955年 体調が徐々に回復。 | ||
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+ | 1963年 5月から翌年3月までドストエフスキー論を岩波新書のために連載するが、未完。 | ||
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+ | 1964年 「近代文学」終刊。 | ||
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+ | 1968年 7月辻邦生と中近東、ソ連、東・西・北欧を約三か月かけて旅行。 | ||
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+ | 1970年 心臓病治療のため入院。 | ||
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+ | 1972年 10月から白内障手術。 | ||
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+ | 1984年 座談会や対談を行わないことを宣言。(しかし、90年に井上光晴、北杜夫らとの対談があった) | ||
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+ | 1987年 白内障手術。 | ||
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+ | 1990年 前年12月戸籍上の誕生日の際に体調を崩し、翌年の二月から四月にかけて胃のポリープを摘出手術。12月、心臓病で入院。 | ||
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+ | 1992年 このころから『死霊』以外の原稿は10枚以上書かず、それ以上長いものは口頭で行うことにする。 | ||
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+ | 1997年 2月19日、脳梗塞のため自宅で死去(享年87才)。 | ||
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+ | ==思想== | ||
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+ | 埴谷雄高の文学的思想的主題に『不合理ゆえに吾信ず』でみられる≪自同律の不快≫があげられる。自同律とは同一原理と同義語であり、一定の思考過程に登場する概念は常に同一の意味で用いられなければならないということである。埴谷はこれに「私が私であることの不快」とあてはめて発展させようと試みた。それがライフワークとなる『死霊』につながり、一生をかけ「私が私であることの不快」を追及していくようになる。 | ||
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+ | 埴谷雄高の思想≪自同律の不快≫は少年期に出生地の台湾で見た地元の人間に対する日本人の差別を見、日本人でいることに嫌気がさしたことに起因する。 | ||
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+ | 社会主義や共産主義に影響され日本共産党に入党するも、出所後他人からのスパイ扱いを嫌疑し脱党。 | ||
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+ | 宇宙にも多大な関心があり、『死霊』にはそれがいかんなく発揮され主題を醸すのに役立っている。 | ||
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+ | ==影響を受けた作家== | ||
影響を受けた作家としてドストエフスキー、カントがあげられる。青年期には青年ヘーゲル左派の思想家マックス・シュティルナーから影響を受けた。 | 影響を受けた作家としてドストエフスキー、カントがあげられる。青年期には青年ヘーゲル左派の思想家マックス・シュティルナーから影響を受けた。 | ||
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==間投詞== | ==間投詞== | ||
- | 『不合理ゆえに我信ず』や『死霊』などの作品には時折、「ぷふい」や「あっは」などの間投詞が出現することがあるがこれらはドイツ語である。作者いわく"遊び"の部分であるという。 | + | 『不合理ゆえに吾信ず』や『死霊』などの作品には時折、「ぷふい」や「あっは」などの間投詞が出現することがあるがこれらはドイツ語である。作者いわく"遊び"の部分であるという。武田泰淳がこれを題材に評論を書いている。 |
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+ | ==参考・引用文献== | ||
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+ | 埴谷雄高文学論集 埴谷雄高評論選集3 講談社文芸文庫 | ||
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+ | 埴谷雄高全集1.3 講談社 | ||
- | ===参考・引用文献=== | ||
- | 埴谷雄高全集1.3 | ||
Wikipedia | Wikipedia | ||
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+ | コトバンク | ||
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最新版
埴谷雄高(はにや ゆたか,1909年12月19日-1997年2月19日)は日本の作家。本名、般若 豊(はんにゃ ゆたか)。
未完に終わった日本の文学史上類を見ない思弁的な形而上学長編小説「死霊(しれい)」で有名。評論でも主にドストエフスキー関連で名をなし、座談会も多く行った。
目次 |
人物
1910年 12月19日(戸籍上は1月1日生まれ) 台湾・新竹にて出生
1919年 黒岩涙香などを読書しはじめる。
1923年 東京・板橋に転居
1925年 結核にかかる。この罹病によりニヒリズムとアナキズムを生じる。
1927年 北海道に転地療養。『オネーギン』、芥川龍之介の自殺に影響を受けニヒリズムに転じる。
1928年 日本大学余科二年に転入。左翼の読書会や演劇活動に従事する際に女優の伊藤としと知り合う。(のち36年に婚約)
1929年 マルクス主義に転ずる。
1930年 大学を出席不良により中退。農民闘争社へと入る。
1931年 日本共産党入党。地下生活を送る。8月、左翼組織強化のため京都へ。
1932年 不敬罪および治安維持法により逮捕。独房で西洋の文学、哲学、思想書を読みあさる。特にカントの『純粋理性批判』に影響を受け終生にまで至る思想を方向づける。
1933年 結核で病監へと移動。二月に上申書を提出し、懲役二年執行猶予四年の判決を受け出所。高円寺に住む。
1934年 終生までの住処である吉祥寺に転居。思想の多角化とドイツ語、ギリシア語、ラテン語の取得に励む。結核により徴兵を免れる。
1939年 平野謙、荒正人らと同人雑誌「構想」を創刊。終巻七号まで処女作『不合理ゆえに吾信ず』を掲載。
1940年 3月経済情報社に入社するも、冬に退社。
1941年 「新経済」創刊。編集長を務める。太平洋戦争開戦により12月9日、予防拘禁法で拘引。
1945年 8月15日 新経済の編集長から降り、文学に専念することを家族に宣言。
1946年 1月「近代文学」創刊。『死霊』を連載しはじめる。
1950年 体調に異変を感じる。
1952年 腸結核が発覚。四年間の療養生活をベッドの上で過ごし、病状の重さにより死を覚悟する。
1955年 体調が徐々に回復。
1963年 5月から翌年3月までドストエフスキー論を岩波新書のために連載するが、未完。
1964年 「近代文学」終刊。
1968年 7月辻邦生と中近東、ソ連、東・西・北欧を約三か月かけて旅行。
1970年 心臓病治療のため入院。
1972年 10月から白内障手術。
1984年 座談会や対談を行わないことを宣言。(しかし、90年に井上光晴、北杜夫らとの対談があった)
1987年 白内障手術。
1990年 前年12月戸籍上の誕生日の際に体調を崩し、翌年の二月から四月にかけて胃のポリープを摘出手術。12月、心臓病で入院。
1992年 このころから『死霊』以外の原稿は10枚以上書かず、それ以上長いものは口頭で行うことにする。
1997年 2月19日、脳梗塞のため自宅で死去(享年87才)。
思想
埴谷雄高の文学的思想的主題に『不合理ゆえに吾信ず』でみられる≪自同律の不快≫があげられる。自同律とは同一原理と同義語であり、一定の思考過程に登場する概念は常に同一の意味で用いられなければならないということである。埴谷はこれに「私が私であることの不快」とあてはめて発展させようと試みた。それがライフワークとなる『死霊』につながり、一生をかけ「私が私であることの不快」を追及していくようになる。
埴谷雄高の思想≪自同律の不快≫は少年期に出生地の台湾で見た地元の人間に対する日本人の差別を見、日本人でいることに嫌気がさしたことに起因する。
社会主義や共産主義に影響され日本共産党に入党するも、出所後他人からのスパイ扱いを嫌疑し脱党。
宇宙にも多大な関心があり、『死霊』にはそれがいかんなく発揮され主題を醸すのに役立っている。
影響を受けた作家
影響を受けた作家としてドストエフスキー、カントがあげられる。青年期には青年ヘーゲル左派の思想家マックス・シュティルナーから影響を受けた。
間投詞
『不合理ゆえに吾信ず』や『死霊』などの作品には時折、「ぷふい」や「あっは」などの間投詞が出現することがあるがこれらはドイツ語である。作者いわく"遊び"の部分であるという。武田泰淳がこれを題材に評論を書いている。
参考・引用文献
埴谷雄高文学論集 埴谷雄高評論選集3 講談社文芸文庫
埴谷雄高全集1.3 講談社
Wikipedia
コトバンク
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