エリフ・イェール
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エリフ・イェール(Elihu yale) | エリフ・イェール(Elihu yale) | ||
- | 生年月日1649年4月5日 | + | '''生年月日'''1649年4月5日<br> |
+ | '''出生地''' アメリカ(植民地時代)ボストン<br> | ||
+ | '''没年月日'''1721年7月8日<br> | ||
+ | '''死没地''' グレートブリテン王国ロンドン<br> | ||
- | 出生地 アメリカ(植民地時代)ボストン | + | エリフ・イェールは、17世紀後半にイギリス[[東インド会社]]に勤め、会社の重要な拠点であったマドラスの総督を務めた人物。私貿易で巨大な財産を築いた篤志家である。第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュ、第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン、第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ等、アメリカの著名人を数多く輩出した名門イェール大学の設立に携わり、大学にその名を冠した。 |
- | 没年月日1721年7月8日 | + | == 生涯 == |
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- | 死没地 グレートブリテン王国ロンドン | + | |
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- | エリフ・イェールは、17世紀後半にイギリス東インド会社に勤め、会社の重要な拠点であったマドラスの総督を務めた人物。第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュ、第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン、第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ等、アメリカの著名人を数多く輩出した名門イェール大学の設立に携わり、大学にその名を冠した人物である。 | + | |
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- | == 生涯 == | + | |
=== 幼年期・青年期 === | === 幼年期・青年期 === | ||
- | エリフ・イェールは、父ダヴィドと母ウルサラの次男として、1649年4月5日、植民地時代のアメリカのボストンで生まれた。父ダヴィドは、再婚した彼の母(イェールにとっての祖母)と義父に連れられ、1637年にイギリスのウェールズから新大陸へ移住してきていた。1652年、エリフがまだ3歳の時、ダヴィド一家はイギリスへと戻り、以後二度と新大陸へは渡らなかった。エリフは少年時代をロンドンで過ごし、その地の私立学校で学んだ。 | + | エリフ・イェールは、父ダヴィドと母ウルサラの次男として、1649年4月5日、植民地時代のアメリカのボストンで生まれた。父ダヴィドは、再婚した彼の母(イェールにとっての祖母)と義父に連れられ、1637年にイギリスのウェールズから新大陸へ移住してきていた。1652年、エリフがまだ3歳の時、ダヴィド一家はイギリスへと戻り、以後二度と新大陸へは渡らなかった。エリフは少年時代をロンドンで過ごし、その地の私立学校で学んだ。<br> |
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20歳になる前に学業を終えたエリフは、1670年、東インド会社吏員として雇用された。翌年には年給10ポンドで書記としてインドに派遣されることが決まり、年末に出発、72年6月23日にマドラスに到着した。 | 20歳になる前に学業を終えたエリフは、1670年、東インド会社吏員として雇用された。翌年には年給10ポンドで書記としてインドに派遣されることが決まり、年末に出発、72年6月23日にマドラスに到着した。 | ||
=== 商務員時期 === | === 商務員時期 === | ||
- | マドラスに着いたイェールは、商館の仕事を真面目にこなして順調に出世し、1678年には商館の商務員の地位につき、79年にはマドラス市裁判所副判事になった。 | + | マドラスに着いたイェールは、商館の仕事を真面目にこなして順調に出世し、1678年には商館の商務員の地位につき、79年にはマドラス市裁判所副判事になった。<br> |
- | + | 同僚だったジョセフ・ヒンマースが亡くなると、80年11月4日にその妻カスリーン(1651~1728)と結婚した。結婚式は丁度完成したばかりの聖メアリ教会で行われた。カスリーンにはすでに四人の子供がおり、内二人は既に教育のためにイギリスへと送られていた。<br> | |
- | 同僚だったジョセフ・ヒンマースが亡くなると、80年11月4日にその妻カスリーン(1651~1728)と結婚した。結婚式は丁度完成したばかりの聖メアリ教会で行われた。 | + | |
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- | カスリーンにはすでに四人の子供がおり、内二人は既に教育のためにイギリスへと送られていた。 | + | |
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このときまでにイェールは既に10年マドラスにおり、現地の貿易事情にも詳しくなっていた。以後、彼は新しく手に入れたカスリーンの財産を上手に用いて、個人貿易に精を出す。マドラスはダイヤモンド産出地にも近い積出港だったので、彼は個人でのダイヤモンド貿易にも手を染めた。 | このときまでにイェールは既に10年マドラスにおり、現地の貿易事情にも詳しくなっていた。以後、彼は新しく手に入れたカスリーンの財産を上手に用いて、個人貿易に精を出す。マドラスはダイヤモンド産出地にも近い積出港だったので、彼は個人でのダイヤモンド貿易にも手を染めた。 | ||
=== 総督への任命 === | === 総督への任命 === | ||
- | マドラスの評議会でのイェールの席次は、上級者が辞めたり死んだりしたために急速に上昇した。第五位貨幣鋳造役、第四位税関長を歴任した後、1684年7月にはついに総督に任命された。 | + | マドラスの評議会でのイェールの席次は、上級者が辞めたり死んだりしたために急速に上昇した。第五位貨幣鋳造役、第四位税関長を歴任した後、1684年7月にはついに総督に任命された。<br> |
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イェールは1692年10月23日まで5年あまり総督を務めるが、この間の最大の業績は、市長と市参事会の設置だった。また、海賊行為を働いたイギリス人のうち二人を処刑、残りの四人の額には海賊のPの字を焼き付けて町から追放するなど、身内であっても容赦せず秩序の確立を図る総督を演出し、町の人々に法の厳守を求めたことも評価された。 | イェールは1692年10月23日まで5年あまり総督を務めるが、この間の最大の業績は、市長と市参事会の設置だった。また、海賊行為を働いたイギリス人のうち二人を処刑、残りの四人の額には海賊のPの字を焼き付けて町から追放するなど、身内であっても容赦せず秩序の確立を図る総督を演出し、町の人々に法の厳守を求めたことも評価された。 | ||
=== 帰国 === | === 帰国 === | ||
- | 1692年、総督の地位を降りたイェールだが、しかしすぐにロンドンに向かうことはできなかった。総督を辞めた途端に「イェール総督の不正、異例、独善的、不当なやり方」を激しく糾弾する声が上がり、身の潔白を証明する必要に迫られたからである。 | + | 1692年、総督の地位を降りたイェールだが、しかしすぐにロンドンに向かうことはできなかった。総督を辞めた途端に「イェール総督の不正、異例、独善的、不当なやり方」を激しく糾弾する声が上がり、身の潔白を証明する必要に迫られたからである。<br> |
- | + | 彼がこのような厳しい批判を浴びた原因は、主として彼が在任中に行った私貿易にある。会社に損害を与えない限り、私貿易は自由とされていたが、イェールは会社を代表し、社員の不正を監督する立場にある人間である。「彼は会社に高い価格で自分の商品を買わせているのではないか」「会社の利益を犠牲にして個人的な事業に励んでいるのではないか」と、彼の行動を非難する者が出るのは当然だった。また、イギリス東インド会社以外の船がマドラスに入港する際には、会社に入港税を支払わねばならないが、イェールは、自分の船の入港税を割り引いた疑いも持たれていた。<br> | |
- | 彼がこのような厳しい批判を浴びた原因は、主として彼が在任中に行った私貿易にある。会社に損害を与えない限り、私貿易は自由とされていたが、イェールは会社を代表し、社員の不正を監督する立場にある人間である。「彼は会社に高い価格で自分の商品を買わせているのではないか」「会社の利益を犠牲にして個人的な事業に励んでいるのではないか」と、彼の行動を非難する者が出るのは当然だった。また、イギリス東インド会社以外の船がマドラスに入港する際には、会社に入港税を支払わねばならないが、イェールは、自分の船の入港税を割り引いた疑いも持たれていた。 | + | |
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総督の下に置かれた評議会のほとんどすべてのメンバーが彼の敵に回り、彼や関係者に対する尋問が行われ、ロンドンの本社とマドラスの間を手紙が往復した。しかし結局彼の政治力や経済力がものをいったのか、彼が厳しく罰せられることはなかった。彼がイギリスのロンドンに向けて旅立つことができたのは、7年後の1699年になったからのことである。 | 総督の下に置かれた評議会のほとんどすべてのメンバーが彼の敵に回り、彼や関係者に対する尋問が行われ、ロンドンの本社とマドラスの間を手紙が往復した。しかし結局彼の政治力や経済力がものをいったのか、彼が厳しく罰せられることはなかった。彼がイギリスのロンドンに向けて旅立つことができたのは、7年後の1699年になったからのことである。 | ||
=== 晩年 === | === 晩年 === | ||
- | イェールは、イギリスでは東インド会社から離れ、ロンドンとウェールズに館を構えて芸術品を収集しながら悠々自適の生活を送った。1701年に設立された海外植民地福音伝道協会(SPG)の活動には積極的に参加し、アメリカに教会のための植民地を作ることを希望していた。このころ、後のイェール大学への寄付も行われた。寄付は、彼の希望を実現するためのものだった。 | + | イェールは、イギリスでは東インド会社から離れ、ロンドンとウェールズに館を構えて芸術品を収集しながら悠々自適の生活を送った。1701年に設立された海外植民地福音伝道協会(SPG)の活動には積極的に参加し、アメリカに教会のための植民地を作ることを希望していた。このころ、後のイェール大学への寄付も行われた。寄付は、彼の希望を実現するためのものだった。<br> |
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1721年7月8日にロンドンで死去。遺骸はレクサムの聖ジルズ教会墓地に埋葬された。 | 1721年7月8日にロンドンで死去。遺骸はレクサムの聖ジルズ教会墓地に埋葬された。 | ||
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== 私貿易と蓄財 == | == 私貿易と蓄財 == | ||
- | イギリスに限らず、どの国の東インド会社の社員であっても、会社が貿易によって最大限の利益を得られるように期待されている。会社が多くの利益を上げれば、社員の職は安定し、より多い俸給が得られるはずである。しかし現実には、東インド会社の社員はしばしば少ない俸給を補うために、また資産を築くために、会社の貿易とは別に個人的な貿易行為(私貿易)に励んだ。こうした私貿易は、逆に会社に損害を与えることもしばしばだった。 | + | イギリスに限らず、どの国の東インド会社の社員であっても、会社が貿易によって最大限の利益を得られるように期待されている。会社が多くの利益を上げれば、社員の職は安定し、より多い俸給が得られるはずである。しかし現実には、東インド会社の社員はしばしば少ない俸給を補うために、また資産を築くために、会社の貿易とは別に個人的な貿易行為(私貿易)に励んだ。こうした私貿易は、逆に会社に損害を与えることもしばしばだった。<br> |
- | + | 主な私貿易の方法は二つあった。一つは、ヨーロッパとアジアの間での私貿易であり、もう一つは、アジア諸地域間での私貿易である。会社の船には、本来水や食料など船上生活に必要な物資を除けば、会社の商品や金銭だけを運んでいるはずである。しかし、実際には船員や商務員が「個人的な手周り荷物」と称して多くの商品を積み込み、船がアジア各地やヨーロッパに到着後、その商品を売りさばいて大きな利益をあげていた。このような違法行為を防ぐために、どの東インド会社でも一定量に限っては個人貿易を認める、という措置を取らざるを得なかった。<br> | |
- | 主な私貿易の方法は二つあった。一つは、ヨーロッパとアジアの間での私貿易であり、もう一つは、アジア諸地域間での私貿易である。会社の船には、本来水や食料など船上生活に必要な物資を除けば、会社の商品や金銭だけを運んでいるはずである。しかし、実際には船員や商務員が「個人的な手周り荷物」と称して多くの商品を積み込み、船がアジア各地やヨーロッパに到着後、その商品を売りさばいて大きな利益をあげていた。このような違法行為を防ぐために、どの東インド会社でも一定量に限っては個人貿易を認める、という措置を取らざるを得なかった。 | + | イェールは、このような状況の中で、ヨーロッパとアジア、アジア諸地域間と二つのルートをフルに活用して、巨額の財産を築いた。ロンドンとマドラスの間では、主としてダイヤモンドを用いた貿易を行った。ダイヤモンドは嵩張らずに容易に隠すことができたので、規則違反の私貿易にはもってこいだった。アジア諸地域間での私貿易については、イェールはありとあらゆる機会をとらえて蓄財に励んだ。彼はマドラス総督という地位も活かして、オランダ人、フランス人、イギリス人など他のヨーロッパ人商人や、地元の交易商人と組んで船を仕立てもしたし、イェール自身も船を所有していた。彼の手による船は、マドラスから東南アジアや中国に赴いて公然と取引を行った。さらには、彼の船がマドラスに持ち帰ってきた商品は、しばしば東インド会社にさえ売却された。<br> |
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- | イェールは、このような状況の中で、ヨーロッパとアジア、アジア諸地域間と二つのルートをフルに活用して、巨額の財産を築いた。ロンドンとマドラスの間では、主としてダイヤモンドを用いた貿易を行った。ダイヤモンドは嵩張らずに容易に隠すことができたので、規則違反の私貿易にはもってこいだった。アジア諸地域間での私貿易については、イェールはありとあらゆる機会をとらえて蓄財に励んだ。彼はマドラス総督という地位も活かして、オランダ人、フランス人、イギリス人など他のヨーロッパ人商人や、地元の交易商人と組んで船を仕立てもしたし、イェール自身も船を所有していた。彼の手による船は、マドラスから東南アジアや中国に赴いて公然と取引を行った。さらには、彼の船がマドラスに持ち帰ってきた商品は、しばしば東インド会社にさえ売却された。 | + | |
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彼がマドラス滞在中に私貿易で得た財産は、20万ポンドに達したと言われている。18世紀初頭のイギリスの小市民の年収が50から100ポンド、ジェントルマンが体面を保って生活していくための最低年額は300ポンドだったとされのだから、20万ポンドが如何に巨大な額であったかが分かる。 | 彼がマドラス滞在中に私貿易で得た財産は、20万ポンドに達したと言われている。18世紀初頭のイギリスの小市民の年収が50から100ポンド、ジェントルマンが体面を保って生活していくための最低年額は300ポンドだったとされのだから、20万ポンドが如何に巨大な額であったかが分かる。 | ||
== 墓碑銘 == | == 墓碑銘 == | ||
- | 聖ジルズ教会墓地の彼の墓碑銘には、次のように記されている。 | + | 聖ジルズ教会墓地の彼の墓碑銘には、次のように記されている。<br> |
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「アメリカに生まれ、ヨーロッパで育ち、アフリカを旅し、アジアで結婚した。そこで彼は長く生き、富を築いた。ロンドンで死す。多くの善いことをなし、悪しきこともいくらかなす。すべては等しく、彼の魂は慈悲により天国へ飛翔したことを願おう」 | 「アメリカに生まれ、ヨーロッパで育ち、アフリカを旅し、アジアで結婚した。そこで彼は長く生き、富を築いた。ロンドンで死す。多くの善いことをなし、悪しきこともいくらかなす。すべては等しく、彼の魂は慈悲により天国へ飛翔したことを願おう」 | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
- | 羽田正(著) 興亡の世界史第15巻『東インド会社とアジアの海』講談社(2007) | + | 羽田正(著) 興亡の世界史第15巻『東インド会社とアジアの海』講談社(2007)<br> |
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浅田實 『東インド会社』 講談社現代新書』講談社現代新書(1989) | 浅田實 『東インド会社』 講談社現代新書』講談社現代新書(1989) | ||
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最新版
エリフ・イェール(Elihu yale)
生年月日1649年4月5日
出生地 アメリカ(植民地時代)ボストン
没年月日1721年7月8日
死没地 グレートブリテン王国ロンドン
エリフ・イェールは、17世紀後半にイギリス東インド会社に勤め、会社の重要な拠点であったマドラスの総督を務めた人物。私貿易で巨大な財産を築いた篤志家である。第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュ、第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン、第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ等、アメリカの著名人を数多く輩出した名門イェール大学の設立に携わり、大学にその名を冠した。
目次 |
生涯
幼年期・青年期
エリフ・イェールは、父ダヴィドと母ウルサラの次男として、1649年4月5日、植民地時代のアメリカのボストンで生まれた。父ダヴィドは、再婚した彼の母(イェールにとっての祖母)と義父に連れられ、1637年にイギリスのウェールズから新大陸へ移住してきていた。1652年、エリフがまだ3歳の時、ダヴィド一家はイギリスへと戻り、以後二度と新大陸へは渡らなかった。エリフは少年時代をロンドンで過ごし、その地の私立学校で学んだ。
20歳になる前に学業を終えたエリフは、1670年、東インド会社吏員として雇用された。翌年には年給10ポンドで書記としてインドに派遣されることが決まり、年末に出発、72年6月23日にマドラスに到着した。
商務員時期
マドラスに着いたイェールは、商館の仕事を真面目にこなして順調に出世し、1678年には商館の商務員の地位につき、79年にはマドラス市裁判所副判事になった。
同僚だったジョセフ・ヒンマースが亡くなると、80年11月4日にその妻カスリーン(1651~1728)と結婚した。結婚式は丁度完成したばかりの聖メアリ教会で行われた。カスリーンにはすでに四人の子供がおり、内二人は既に教育のためにイギリスへと送られていた。
このときまでにイェールは既に10年マドラスにおり、現地の貿易事情にも詳しくなっていた。以後、彼は新しく手に入れたカスリーンの財産を上手に用いて、個人貿易に精を出す。マドラスはダイヤモンド産出地にも近い積出港だったので、彼は個人でのダイヤモンド貿易にも手を染めた。
総督への任命
マドラスの評議会でのイェールの席次は、上級者が辞めたり死んだりしたために急速に上昇した。第五位貨幣鋳造役、第四位税関長を歴任した後、1684年7月にはついに総督に任命された。
イェールは1692年10月23日まで5年あまり総督を務めるが、この間の最大の業績は、市長と市参事会の設置だった。また、海賊行為を働いたイギリス人のうち二人を処刑、残りの四人の額には海賊のPの字を焼き付けて町から追放するなど、身内であっても容赦せず秩序の確立を図る総督を演出し、町の人々に法の厳守を求めたことも評価された。
帰国
1692年、総督の地位を降りたイェールだが、しかしすぐにロンドンに向かうことはできなかった。総督を辞めた途端に「イェール総督の不正、異例、独善的、不当なやり方」を激しく糾弾する声が上がり、身の潔白を証明する必要に迫られたからである。
彼がこのような厳しい批判を浴びた原因は、主として彼が在任中に行った私貿易にある。会社に損害を与えない限り、私貿易は自由とされていたが、イェールは会社を代表し、社員の不正を監督する立場にある人間である。「彼は会社に高い価格で自分の商品を買わせているのではないか」「会社の利益を犠牲にして個人的な事業に励んでいるのではないか」と、彼の行動を非難する者が出るのは当然だった。また、イギリス東インド会社以外の船がマドラスに入港する際には、会社に入港税を支払わねばならないが、イェールは、自分の船の入港税を割り引いた疑いも持たれていた。
総督の下に置かれた評議会のほとんどすべてのメンバーが彼の敵に回り、彼や関係者に対する尋問が行われ、ロンドンの本社とマドラスの間を手紙が往復した。しかし結局彼の政治力や経済力がものをいったのか、彼が厳しく罰せられることはなかった。彼がイギリスのロンドンに向けて旅立つことができたのは、7年後の1699年になったからのことである。
晩年
イェールは、イギリスでは東インド会社から離れ、ロンドンとウェールズに館を構えて芸術品を収集しながら悠々自適の生活を送った。1701年に設立された海外植民地福音伝道協会(SPG)の活動には積極的に参加し、アメリカに教会のための植民地を作ることを希望していた。このころ、後のイェール大学への寄付も行われた。寄付は、彼の希望を実現するためのものだった。
1721年7月8日にロンドンで死去。遺骸はレクサムの聖ジルズ教会墓地に埋葬された。
人物
イェールの伝記作者ビンガム氏は、夫人と子供たちがいた間は、尊敬され穏やかで信頼できる人物だったと述べた後、総督時代後半のイェールを「横柄で頑固、攻撃的で評議会のメンバーを信用せず、敬意を払わなかった」と酷評している。また、1700年、イェールがロンドン帰着直後に彼に会ったジャン・シャルダンが、当初は「率直で誠実な人柄に好感が持てる」と記していたにもかかわらず、1年後には「臆病で優柔不断でいつも防御的。一言で言うと大した人物ではない」と完全に評価を変えている。複雑な性格の人物であったようである。
私貿易と蓄財
イギリスに限らず、どの国の東インド会社の社員であっても、会社が貿易によって最大限の利益を得られるように期待されている。会社が多くの利益を上げれば、社員の職は安定し、より多い俸給が得られるはずである。しかし現実には、東インド会社の社員はしばしば少ない俸給を補うために、また資産を築くために、会社の貿易とは別に個人的な貿易行為(私貿易)に励んだ。こうした私貿易は、逆に会社に損害を与えることもしばしばだった。
主な私貿易の方法は二つあった。一つは、ヨーロッパとアジアの間での私貿易であり、もう一つは、アジア諸地域間での私貿易である。会社の船には、本来水や食料など船上生活に必要な物資を除けば、会社の商品や金銭だけを運んでいるはずである。しかし、実際には船員や商務員が「個人的な手周り荷物」と称して多くの商品を積み込み、船がアジア各地やヨーロッパに到着後、その商品を売りさばいて大きな利益をあげていた。このような違法行為を防ぐために、どの東インド会社でも一定量に限っては個人貿易を認める、という措置を取らざるを得なかった。
イェールは、このような状況の中で、ヨーロッパとアジア、アジア諸地域間と二つのルートをフルに活用して、巨額の財産を築いた。ロンドンとマドラスの間では、主としてダイヤモンドを用いた貿易を行った。ダイヤモンドは嵩張らずに容易に隠すことができたので、規則違反の私貿易にはもってこいだった。アジア諸地域間での私貿易については、イェールはありとあらゆる機会をとらえて蓄財に励んだ。彼はマドラス総督という地位も活かして、オランダ人、フランス人、イギリス人など他のヨーロッパ人商人や、地元の交易商人と組んで船を仕立てもしたし、イェール自身も船を所有していた。彼の手による船は、マドラスから東南アジアや中国に赴いて公然と取引を行った。さらには、彼の船がマドラスに持ち帰ってきた商品は、しばしば東インド会社にさえ売却された。
彼がマドラス滞在中に私貿易で得た財産は、20万ポンドに達したと言われている。18世紀初頭のイギリスの小市民の年収が50から100ポンド、ジェントルマンが体面を保って生活していくための最低年額は300ポンドだったとされのだから、20万ポンドが如何に巨大な額であったかが分かる。
墓碑銘
聖ジルズ教会墓地の彼の墓碑銘には、次のように記されている。
「アメリカに生まれ、ヨーロッパで育ち、アフリカを旅し、アジアで結婚した。そこで彼は長く生き、富を築いた。ロンドンで死す。多くの善いことをなし、悪しきこともいくらかなす。すべては等しく、彼の魂は慈悲により天国へ飛翔したことを願おう」
参考文献
羽田正(著) 興亡の世界史第15巻『東インド会社とアジアの海』講談社(2007)
浅田實 『東インド会社』 講談社現代新書』講談社現代新書(1989)
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