吉田健一
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- | '''吉田健一'''(よしだ けんいち,1912年4月1日-1977年8月3日)は日本の評論家、小説家、翻訳家、英文学者。戸籍上は4月1日が誕生日ではあるが、吉田家では3月27日に祝った。父は吉田茂。ケンブリッジ大学中退。最晩年に「人妻」を「じんさい」と読んだエピソードからみられるように日本語よりも幼少期から学んだ英語を得意とし、英語、英文学に関する評論や翻訳をはじめ、英語から影響を受けた独特な文体で描かれたエッセイは人気を博した。 | + | '''吉田健一'''(よしだ けんいち,1912年4月1日-1977年8月3日)は日本の評論家、小説家、翻訳家、英文学者。戸籍上は4月1日が誕生日ではあるが、吉田家では3月27日に祝った。父は総理大臣の吉田茂。母雪子の伯父は大久保利通の二男で内大臣を務めた牧野伸顕である。ケンブリッジ大学中退。最晩年に「人妻」を「じんさい」と読んだエピソードからみられるように日本語よりも幼少期から学んだ英語を得意とし、英語、英文学に関する評論や翻訳をはじめ、英語から影響を受けた独特な文体で描かれたエッセイは人気を博した。 |
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- | 文学賞を受賞した作品(評論やエッセイ)を多く保持しているにも関わらず吉田健一の主著は『時間』だと言われている。著者自身も「中に残っていたものをすべて出し切った」と語っており、自他ともに認める作品である。文学作品における時間の用例や | + | 文学賞を受賞した作品(評論やエッセイ)を多く保持しているにも関わらず吉田健一の主著は『時間』だと言われている。著者自身も「中に残っていたものをすべて出し切った」と語っており、自他ともに認める作品である。 |
+ | この著書において著者は古くから行われてきた物理学や哲学を通しての時間に対する論考を行わず、日常的な時間間隔と文学作品から発現される時間構造を思考の基盤に置き「時間」を世界または原理と考えた。この時間の観方はベルクソンの純粋持続と呼ばれる考えに一見似ているように思われるが、ベルクソンのように内的時間や外的時間と峻別はしておらず、まったくの日常的な、どこにでもあるはずの時間を、現在時のしなやかな持続としてとらえており、さらにその持続をいかなる目的意識からも清めている。そして、さらに時間と空間という二つの根本的なカテゴリーからも世界を考える態度に反対する。もし時間がなければまったくの無以外のなにものでもない以上、時間こそは世界の至高の原理、世界そのものだからである。 | ||
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+ | '''" 「意識の究極の対象になるものが時間であるのみならず一切のものが時間とともにあつて存在し、そのどれもがそれなりに時間を表すものと見られる時に時間以外のものといふのが何を指すことにもならなくなるからで時間の観念があつてその時間のうちにあるものがその輪郭を明確にしてそれ故に時間を意識することが世界の認識でもある」 | ||
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==参考・引用文献== | ==参考・引用文献== |
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吉田健一(よしだ けんいち,1912年4月1日-1977年8月3日)は日本の評論家、小説家、翻訳家、英文学者。戸籍上は4月1日が誕生日ではあるが、吉田家では3月27日に祝った。父は総理大臣の吉田茂。母雪子の伯父は大久保利通の二男で内大臣を務めた牧野伸顕である。ケンブリッジ大学中退。最晩年に「人妻」を「じんさい」と読んだエピソードからみられるように日本語よりも幼少期から学んだ英語を得意とし、英語、英文学に関する評論や翻訳をはじめ、英語から影響を受けた独特な文体で描かれたエッセイは人気を博した。
人物
1912年 3月27日 東京・千駄ヶ谷の宮内庁庁舎において生まれる。9月、父吉田茂が安東領事として転任。母も父に連れ添ったため、資産家の伯父牧野伸顕の家に預けられる。
1918年 学習院初等科に入学するも一学期で中退。済南領事に転じた父に従い、青島、済南と移り住む。この頃は学校に通わず家庭教師から教育を受けた。
1919年 父のパリ講和会議出席に伴い、パリへ赴く。父は帰国するも、一家はパリに一年ほど住む。
1920年 6月、父がロンドンの日本大使館に一等書記官として赴任。家族でロンドン市郊外に住む。テムズ河の南、ストラタム・ヒルの小学校に通う。
1922年 3月、家族とともに帰国。5月、父は天津総領事に赴任。家族もこれに従い、健一は天津にある英国人学校に通う。
1923年 天津グラマースクールに入学。7月から10月まで一時帰国。9月1日の大地震の際は箱根に滞在していた。
1926年 4月、暁星中学二年に編入。
1930年 3月、暁星中学卒業。末にはケンブリッジで学ぶため、神戸港から英国へ発つ。5月頃に到着。受験勉強のために郊外にこもり、シェイクスピア『十二夜』などを暗記する。十月、ケンブリッジ大学キング ス・カレッジに入学。冬、パリを旅行。
1931年 文士を志し、1月末か2月頃に大学を中退。3月に帰国、河上徹太郎に師事。9月、河上の薦めでアテネ・フランセに入学。
1935年 6月、アテネ・フランセ卒業。
1936年 この頃から雑誌『文学界』に寄稿をはじめる。
1938年 フランスの詩人ポール・ヴァレリーの翻訳を『文学界』に寄稿しはじめる。
1939年 山本健吉、中村光夫らと雑誌『批評』を創刊。
1941年 5月13日、結婚。10月7日、母死亡。
1942年 9月12日、長男生まれる。
1943年 このころ国際文化振興会翻訳室に勤務。
1945年 3月9日の空襲で牛込区払込町にあった自宅を全焼。5月、妻の実家である福島に疎開していたときに召集令状が届き、横須賀海兵団に入隊。8月、復員。10月23日、長女生まれる。
1946年 牧野伸顕の談話を筆録するため、春より月に二、三度牧野宅へ中村光夫と通う。
1947年 『新夕刊』に渉外部長として入社。また鎌倉アカデミアで講義。
1948年 1月、筆録した牧野伸顕『回想録』全三巻が刊行されはじめる。
1949年 1月24日、牧野伸顕死去。4月、国学院大学非常勤講師に就任。
1950年 4月、清泉女子大学非常勤講師に就任。
1951年 7月14日、チャタレイ裁判に弁護側証人として東京地方裁判所に出廷。
1953年 8月、英国外務省の招待により池島信平、河上徹太郎、福原麟太郎らとともに二十二年ぶりに英国を訪れる。
1957年 1月、『シェイクスピア』が読売文学賞となる。12月、『日本について』が新潮社文学賞となる。
1963年 4月、中央大学文学部の教授に就任。
1967年 10月20日、父死去。
1970年 中央大学を辞す。12月、『ヨオロッパの世紀末』が野間文芸賞を受賞。
1971年 2月、『瓦礫の中』が読売文芸賞を受賞。
1977年 5月、英国・フランスを旅行。7月、帰国。8月3日、肺炎のため死去。(享年65歳)
主著『時間』
文学賞を受賞した作品(評論やエッセイ)を多く保持しているにも関わらず吉田健一の主著は『時間』だと言われている。著者自身も「中に残っていたものをすべて出し切った」と語っており、自他ともに認める作品である。 この著書において著者は古くから行われてきた物理学や哲学を通しての時間に対する論考を行わず、日常的な時間間隔と文学作品から発現される時間構造を思考の基盤に置き「時間」を世界または原理と考えた。この時間の観方はベルクソンの純粋持続と呼ばれる考えに一見似ているように思われるが、ベルクソンのように内的時間や外的時間と峻別はしておらず、まったくの日常的な、どこにでもあるはずの時間を、現在時のしなやかな持続としてとらえており、さらにその持続をいかなる目的意識からも清めている。そして、さらに時間と空間という二つの根本的なカテゴリーからも世界を考える態度に反対する。もし時間がなければまったくの無以外のなにものでもない以上、時間こそは世界の至高の原理、世界そのものだからである。
" 「意識の究極の対象になるものが時間であるのみならず一切のものが時間とともにあつて存在し、そのどれもがそれなりに時間を表すものと見られる時に時間以外のものといふのが何を指すことにもならなくなるからで時間の観念があつてその時間のうちにあるものがその輪郭を明確にしてそれ故に時間を意識することが世界の認識でもある」 "
参考・引用文献
新潮日本文学アルバム『吉田健一』 新潮社
『時間』 講談社文芸文庫
吉田健一の時間-黄昏の優雅 水声社
wikipedia
HN:いじげん