ロバート・キャパ
出典: Jinkawiki
2010年6月28日 (月) 12:46の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
最新版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) |
||
22 行 | 22 行 | ||
1943年北アフリカ戦線へ行く(ハンガリーは連合国側に宣戦布告を行っていたので、キャパはアメリカにとって敵性外国人であったがただ一人帯同することが許された)。同年、キャパはイタリア戦線へも赴いた。そして、この頃に「ライフ」誌と契約。 | 1943年北アフリカ戦線へ行く(ハンガリーは連合国側に宣戦布告を行っていたので、キャパはアメリカにとって敵性外国人であったがただ一人帯同することが許された)。同年、キャパはイタリア戦線へも赴いた。そして、この頃に「ライフ」誌と契約。 | ||
- | 1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。海から上陸を試みる連合国側の兵士とそれを阻もうとする枢軸国側の兵士を最前線で撮影した。これらの写真はすぐに現像に回されたが技師の手違いによりフィルムが焼けてしまい、ブレの残った11枚のみが現像できた。これらの写真はのちに『ちょっとピンぼけ』として発表された。8月、パリ解放を撮影。終戦後、1946年にはアメリカ市民権を取得。1948年第一次中東戦争を取材。この頃「マグナム」というカメラマンの集団を主宰。 | + | 1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。海(オマハビーチ)から上陸を試みる連合国側の兵士とそれを阻もうとする枢軸国側の兵士を最前線で撮影した。これらの写真はすぐに現像に回されたが技師の手違いによりフィルムが焼けてしまい、ブレの残った11枚のみが現像できた。これらの写真はのちに『ちょっとピンぼけ』として発表された。8月、パリ解放を撮影。終戦後、1946年にはアメリカ市民権を取得。1948年第一次中東戦争を取材。この頃「マグナム・フォト」というカメラマンの集団を主宰。 |
- | 1954年4月、雑誌の創刊記念に呼ばれ来日。日本の子供らや風景を写した。在日中に第一次インドシナ(ヴェトナム)戦争取材の依頼を受け南ヴェトナムへと赴く。1954年5月25日火曜日の午後三時、 | + | 1954年4月、雑誌の創刊記念に呼ばれ来日。日本の子供らや風景を写した。在日中に第一次インドシナ(ヴェトナム)戦争取材の依頼を受け南ヴェトナムへと赴く。そして1954年5月25日火曜日の午後三時頃、兵士を撮影するため草の生えたなだらかな傾斜に上ったとき地雷を踏み死亡する。そのときカメラは握ったままであった。 |
+ | |||
+ | 「マグナム・フォト」で一緒に活動し国際写真協会で会長を務めたコーネル・キャパ(1918-2008)は実弟。 | ||
参考文献・引用 | 参考文献・引用 |
最新版
ロバート・キャパはハンガリー生まれの写真家(1913年10月22日-1954年5月25日)。本名エンドレ・エルネー・フリードマン。1946年にアメリカ市民権を得る。
1913年10月22日にブダペストで生まれる。父母はともにファッションサロンを経営していた。
学生時代に自由主義、共産主義的な思想に傾倒する。
『ハイスクール(すなわち、ギムナジウム)での最後の二年間のうちに私は文学と政治に関心を持つようになり、ジャーナリストの道を選ぶことを決めた』---「キャパ その青春」リチャード・ウィーラン作 沢木耕太郎訳 33-34P
1917年に共産デモに関与したことにより逮捕。父の仲介により出所し、ハンガリーの学校を卒業後ベルリンの学校へ進学する。1931年に入学。しかし、世界恐慌により両親からの仕送りがなくなり下宿を追い出される。困惑したキャパだったが、これをきっかけに写真家になることを決め友人からカメラをもらい写真を撮影するようになる。
1932年にはベルリンで写真通信会社の暗室係を務める。暗室係だけでなく電話の対応や編集者への写真の配達、さらには仕事中のカメラマンへ必要な用具を運ぶような仕事もした。上の人間からは「ラウフブープ(ドイツ語で召使い)」と呼ばれたり、経済的な問題は解決しなかったがプロのカメラマンとの交流などが生まれジャーナリストへの道は開きつつあった。同僚は当時のキャパを「たいそう快活で、聡明で、誰からも好かれており、貧しかったがハンサムだったので、同じ職場で働いている女性たちがよくサンドウィッチを持ってきていたものだった」と語っている。 転機が訪れたのは暗室での作業中ハラルト・レッヒェンベルクが撮影したインドのパンジャーブ地方の結婚式の写真を見、猛烈な感動に襲われたことにある。キャパはその写真を社長に見せ、社長からその鑑識眼と自然な感性を認められる。そして、ライカを持たせられ簡単な仕事に送り出されるようになる。 11月の下旬。キャパに最初の大仕事、出世のきっかけとなる仕事が舞い込む。それはデンマークのコペンハーゲンにおいて当時ソ連を追い出されたトロツキーを撮影することであった。トロツキーはコペンハーゲンにおいて学生たちへの講演を決定していてその講演会に侵入し撮影を行うということだった。そして、その撮影は成功し反響を呼んだ。大きなボックス型のカメラを持ってきた人間は凶器をカメラの中に隠せる心配からか会場へと入れさせてもらえなかったがキャパの持っていたのは小さなライカだったので発見されずに済み、さらにトロツキーは演説の名人でクライマックスの激しくなった調子をボックス型カメラのフラッシュで撮影されると気分が悪くなるのだったが、フラッシュのいらないライカを所持していたキャパはなんなくトロツキーを撮影することができた。
1933年、ヒトラーが首相に任命され非アーリア人、ユダヤ人であるキャパに対してドイツ国民からの罵声や嘲弄が起こってくる。そして2月27日国会議事堂が放火され、共産党が非合法化された夜に社長から逃げるよう促されウィーンへと行く。ウィーンにあるレッヒェンベルクの家にかくまわれたキャパは6月初旬にブタペストに帰るまで助手として雇ってもらう。 ブダペストへ帰ると家族は破産しており、深刻な経済状況に置かれていることを知る。そして旅行会社のカメラマンとしてブダペストのパンフレットに掲載する写真を撮影する仕事に就く。そしてさまざまなものに閉塞感を感じていた昔の仲間と一緒にパリへと行く計画を立て、実際にパリへと行き貧乏な生活を行う。たまの写真に関する仕事や映画に傾倒するなどしていた。
そして1936年、従軍したキャパは彼を世界的に有名にした「崩れ落ちる兵士」を撮影する。この頃、彼は写真を発表する時の名前を「ロバート・キャパ」とする。「崩れ落ちる兵士」は一時射殺された兵士の弟が自分の兄だと認めるなど信憑性が確立されたと思われたが、後々検証映画などが作られるなど様々な憶説(滑り落ちているだけではないかなど)が生まれ今でも議論を生んでいる。
1938年には日中戦争撮影のため中国に渡る。日本軍が中国の鉄道を狙って攻撃をしていたため、キャパは日中戦争を「鉄路の戦い」と呼んだ。 1939年はアメリカ合衆国のニューヨークへと赴き、1940年キャパはメキシコへ送られる。この頃のメキシコは大統領選挙、ナチスがアメリカの視線をそらせるために仕組んだ国境のすぐ南の紛争などがあってルポルタージュの格好の場所であった。 1943年北アフリカ戦線へ行く(ハンガリーは連合国側に宣戦布告を行っていたので、キャパはアメリカにとって敵性外国人であったがただ一人帯同することが許された)。同年、キャパはイタリア戦線へも赴いた。そして、この頃に「ライフ」誌と契約。
1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。海(オマハビーチ)から上陸を試みる連合国側の兵士とそれを阻もうとする枢軸国側の兵士を最前線で撮影した。これらの写真はすぐに現像に回されたが技師の手違いによりフィルムが焼けてしまい、ブレの残った11枚のみが現像できた。これらの写真はのちに『ちょっとピンぼけ』として発表された。8月、パリ解放を撮影。終戦後、1946年にはアメリカ市民権を取得。1948年第一次中東戦争を取材。この頃「マグナム・フォト」というカメラマンの集団を主宰。
1954年4月、雑誌の創刊記念に呼ばれ来日。日本の子供らや風景を写した。在日中に第一次インドシナ(ヴェトナム)戦争取材の依頼を受け南ヴェトナムへと赴く。そして1954年5月25日火曜日の午後三時頃、兵士を撮影するため草の生えたなだらかな傾斜に上ったとき地雷を踏み死亡する。そのときカメラは握ったままであった。
「マグナム・フォト」で一緒に活動し国際写真協会で会長を務めたコーネル・キャパ(1918-2008)は実弟。
参考文献・引用
キャパ その青春 リチャード・ウィーラン 沢木耕太郎訳
キャパ その死 リチャード・ウィーラン 沢木耕太郎訳
HN いじげん