マグナ・カルタ
出典: Jinkawiki
2010年7月7日 (水) 16:12の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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マグナ・カルタとはイングランドの憲章で、ジョン王の権限を限定する法である。 | マグナ・カルタとはイングランドの憲章で、ジョン王の権限を限定する法である。 | ||
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12世紀後半、イギリスの王朝はアンジュー伯に継がれ、フランス系のプランタジネット超が始まる。初代王のヘンリ2世はイギリス王であると同時にフランス王の臣下だが、パリ周辺のみにしか力を持たないフランス王を圧倒していた。しかしジョン王の時代、対フランス戦争で連敗、ノルマンディーをはじめとするフランス内のイギリス領を喪失し、父王ヘンリ2世のアンジュー帝国を崩壊させた。また、カンタベリ大司教の任命をめぐって、教皇インノケンティウス3世と対立して破門され、屈伏する。増税で戦費を賄おうとしたが、貴族は反発した。これにはロンドンの市民も同調したため、1215年ジョン王は譲歩し、貴族たちの要求する条項に調印した。マグナ・カルタはイギリス立憲政治の基礎となる。その後、ジョン王の子・イギリス王ヘンリ3世のマグナ・カルタ無視に貴族は反乱、騎士や市民参加の議会を王に認めさせた。 | 12世紀後半、イギリスの王朝はアンジュー伯に継がれ、フランス系のプランタジネット超が始まる。初代王のヘンリ2世はイギリス王であると同時にフランス王の臣下だが、パリ周辺のみにしか力を持たないフランス王を圧倒していた。しかしジョン王の時代、対フランス戦争で連敗、ノルマンディーをはじめとするフランス内のイギリス領を喪失し、父王ヘンリ2世のアンジュー帝国を崩壊させた。また、カンタベリ大司教の任命をめぐって、教皇インノケンティウス3世と対立して破門され、屈伏する。増税で戦費を賄おうとしたが、貴族は反発した。これにはロンドンの市民も同調したため、1215年ジョン王は譲歩し、貴族たちの要求する条項に調印した。マグナ・カルタはイギリス立憲政治の基礎となる。その後、ジョン王の子・イギリス王ヘンリ3世のマグナ・カルタ無視に貴族は反乱、騎士や市民参加の議会を王に認めさせた。 | ||
- | ===内容=== | + | ==内容== |
教会の自由、封建的負担の制限、国王役人の職権乱用防止、ロンドンその他の都市の特権、通商の自由、度量衡の統一など多岐にわたる。近世になって63ヶ条に整理されたが、もともとは貴族や市民などの権利を書きならべたものにすぎず、法典の体系性は見られない。その意味で、マグナ・カルタは封建的慣習・特権を国王に再認識させ、国王の専横に歯止めをかけようとしたものととらえることができる。しかし、法の支配を明文化した点で高く評価された。現在、2つあるコピーのうち1つは1731年の火事で損傷したが、もう1つは大英博物館に保管されている。 | 教会の自由、封建的負担の制限、国王役人の職権乱用防止、ロンドンその他の都市の特権、通商の自由、度量衡の統一など多岐にわたる。近世になって63ヶ条に整理されたが、もともとは貴族や市民などの権利を書きならべたものにすぎず、法典の体系性は見られない。その意味で、マグナ・カルタは封建的慣習・特権を国王に再認識させ、国王の専横に歯止めをかけようとしたものととらえることができる。しかし、法の支配を明文化した点で高く評価された。現在、2つあるコピーのうち1つは1731年の火事で損傷したが、もう1つは大英博物館に保管されている。 | ||
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+ | ===参考文献=== | ||
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+ | ・川村亮(2002)『完全制覇 世界史』、東京、立風書房 | ||
+ | ・木下康彦、木村精二、吉田寅(2008)『諸説世界史研究 改訂版』、東京、山川出版 | ||
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最新版
マグナ・カルタとはイングランドの憲章で、ジョン王の権限を限定する法である。
経緯
12世紀後半、イギリスの王朝はアンジュー伯に継がれ、フランス系のプランタジネット超が始まる。初代王のヘンリ2世はイギリス王であると同時にフランス王の臣下だが、パリ周辺のみにしか力を持たないフランス王を圧倒していた。しかしジョン王の時代、対フランス戦争で連敗、ノルマンディーをはじめとするフランス内のイギリス領を喪失し、父王ヘンリ2世のアンジュー帝国を崩壊させた。また、カンタベリ大司教の任命をめぐって、教皇インノケンティウス3世と対立して破門され、屈伏する。増税で戦費を賄おうとしたが、貴族は反発した。これにはロンドンの市民も同調したため、1215年ジョン王は譲歩し、貴族たちの要求する条項に調印した。マグナ・カルタはイギリス立憲政治の基礎となる。その後、ジョン王の子・イギリス王ヘンリ3世のマグナ・カルタ無視に貴族は反乱、騎士や市民参加の議会を王に認めさせた。
内容
教会の自由、封建的負担の制限、国王役人の職権乱用防止、ロンドンその他の都市の特権、通商の自由、度量衡の統一など多岐にわたる。近世になって63ヶ条に整理されたが、もともとは貴族や市民などの権利を書きならべたものにすぎず、法典の体系性は見られない。その意味で、マグナ・カルタは封建的慣習・特権を国王に再認識させ、国王の専横に歯止めをかけようとしたものととらえることができる。しかし、法の支配を明文化した点で高く評価された。現在、2つあるコピーのうち1つは1731年の火事で損傷したが、もう1つは大英博物館に保管されている。
参考文献
・川村亮(2002)『完全制覇 世界史』、東京、立風書房 ・木下康彦、木村精二、吉田寅(2008)『諸説世界史研究 改訂版』、東京、山川出版
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