ヴァルター・ベンヤミン

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-ヴァルター・ベンヤミン(1892年7月15日-1940年9月26日)はドイツ生まれの評論家。フランクフルト学派の一人。ユダヤ系。+ヴァルター・ベンヤミン(1892年7月15日-1940年9月26日)はドイツ生まれの評論家。フランクフルト学派の一人。ユダヤ系。評論や文芸批評以外にもボードレールの翻訳などでも有名。
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 +== 年譜 ==
1892年にユダヤ人の裕福な家庭に生まれる。 1892年にユダヤ人の裕福な家庭に生まれる。
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1921年『暴力批判論』発表。ジョルジュ・ソレルの『暴力論』に影響を受けたこの論文は神学的な観点に基づいた革命理論だった。金銭的困難のため身内から出版屋か本屋になれと言われていたベンヤミンは同年『新しき天使』と名付けた雑誌の発刊を試みるが1922年頃から激化したインフレーションにより出版社が印刷費の提供を拒否。雑誌の出版は諦めることになる。さらに古書売買の店を作ることに乗り気ではあったが実現しなかった。 1921年『暴力批判論』発表。ジョルジュ・ソレルの『暴力論』に影響を受けたこの論文は神学的な観点に基づいた革命理論だった。金銭的困難のため身内から出版屋か本屋になれと言われていたベンヤミンは同年『新しき天使』と名付けた雑誌の発刊を試みるが1922年頃から激化したインフレーションにより出版社が印刷費の提供を拒否。雑誌の出版は諦めることになる。さらに古書売買の店を作ることに乗り気ではあったが実現しなかった。
1923年にはインフレによりさらに生活が困窮し、友人のショーレムはドイツに見切りをつけエルサレムへと移住した。ベンヤミンもまた、この頃に国外への移住を考えていた。この時期は英語が堪能な妻の翻訳業から出る収入によって生活を送っていたが、妻が失業。『ゲーテの「親和力」について』という論文を発表。この論文はユーラ・コーンという女性にささげられており妻との結婚生活の破たんが反映されていた。 1923年にはインフレによりさらに生活が困窮し、友人のショーレムはドイツに見切りをつけエルサレムへと移住した。ベンヤミンもまた、この頃に国外への移住を考えていた。この時期は英語が堪能な妻の翻訳業から出る収入によって生活を送っていたが、妻が失業。『ゲーテの「親和力」について』という論文を発表。この論文はユーラ・コーンという女性にささげられており妻との結婚生活の破たんが反映されていた。
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 +1924年にはインフレが終息しはじめ、よく旅行をすることになる。フランクフルト大学で教授資格を得るための論文執筆のためにナポリ沖合のカプリ島に滞在する。この島で彼はアーシャ・ラッイスという女性に出会う。1925年に論文を大学側に提出するも、内容が難解であったために却下。秋頃にスペインとイタリアを旅行し、ラトヴィアにおいてアーシャと再会。1926年には3月から10月までフランスのパリに滞在し、友人とはじめていたマルセル・プルースト『失われた時を求めて』の翻訳を続けるとともにエッセイ『一方通行路』を執筆した。パリでの体験はのちに代表作となる「パリのパサージュ論(パリの遊歩街論)」に関する構想を生んだ。
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 +1927年モスクワを旅行。モスクワの病院に入院していたアーシャと会う。アーシャとともに共産党に入党しようとしたが、当時のロシアはトロツキーが国外追放されスターリンの時代が始まりユダヤ人の排斥が始まる時分だったことから断念。
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 +1926年頃から新聞の文芸欄の寄稿家として活動を始める。1933年までにベンヤミンはこれらの新聞に30編から50編の評論を発表し評論家として大きな位置を占めるようになってきていた。
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 +1928年ショーレムによりエルサレム大学に招かれるも反古にする。アーシャと同棲を開始。妻との生活の破たんが決定的となる。翌年の6月には離婚訴訟を開始。1930年には正式に離婚が成立する。アーシャは劇作家のベルトルト・ブレヒトと交流があり、ベンヤミンがブレヒトと関係を結ぶきっかけとなる。
 +31年には自殺を決意するも思いとどまる。1933年ヒトラーが首相になるとパリへ亡命。ベンヤミンは極貧であったが仲間の所属する研究機関から論文を発表することができた。「パリのパサージュ論」の研究に没頭。
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 +1934年も研究機関から給金が出るものの極貧であった。イタリアにある離婚した妻の経営する宿屋に滞在したりしていた。
 +1939年共産主義者とみなされドイツ市民権をはく奪される。
 +1940年、6月にパリが陥落。ベンヤミンは5月下旬に南フランスのスペイン国境付近に逃げアメリカへの逃亡を計画し、ビザを取得するがフランスの出国ビザを得られずポルトガルのリスボンに出てそこからアメリカへの渡航を企てるもスペインに入国してすぐに警察に拘留。フランスへ送還される可能性があったため隠し持っていたモルヒネで自殺。なお、ベンヤミンの死には不可解な部分もあり暗殺の可能性もある。
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 +== その思想 ==
 +文化社会学者として、史的唯物論とユダヤ的神秘主義を結びつけた。エッセイのかたちを採った自由闊達なエスプリの豊かさと文化史、精神史に通暁した思索の深さ、20、21世紀の都市と人々の有り様を冷徹に予見したような分析には定評がある。
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 +== 参考文献・引用 ==
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 +人と思想「ベンヤミン」 村上隆夫・著 清水書院
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 +Wikipedia「ヴァルター・ベンヤミン」
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 +HN:いじげん

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ヴァルター・ベンヤミン(1892年7月15日-1940年9月26日)はドイツ生まれの評論家。フランクフルト学派の一人。ユダヤ系。評論や文芸批評以外にもボードレールの翻訳などでも有名。

年譜

1892年にユダヤ人の裕福な家庭に生まれる。

1902年にギムナジウム(高等中学校)に入学。しかし病弱や学校の厳しい規則に馴染めなかったために1905年、両親に転地療養として教育施設に送られ一年卒業が遅れる。この教育施設においてこの学園を運営するグスタフ・ヴィネケンから多大な影響を受ける。

1912年にフライブルク大学に入学するも翌年、友人とベルリン大学へ転入。この頃、学生組織「談話室」を友人らと作ったが政治と密着するか離れるか内紛がおこり離れる側であったベンヤミンは脱退。(当時は第一次世界大戦間近であり青年運動の組織は政治と密着しやすかったが、ベンヤミンはあくまでも純粋な青年運動の組織として運営を行いたかった。)この争いが行われていた最中に自由主義的な理想をかかげる「自由学生連合」の議長に選出。しかしここでも政治との密着は避けることができなかった。

そして1914年8月1日に第一次世界大戦勃発。8月8日にともに「談話室」を作った友人が自殺。「談話室」などの青年運動の組織が続々と解体。青年運動の限界を感じる。1915年には上記のヴィネケンが戦意高揚のための論文を発表したため彼と絶縁。 1914年は徴兵の可能性があったが、友人の自殺以降忌避を心がけるようになった。震顫病患者だと偽ったり、のちにユダヤ神秘主義の学者となるゲルショム・ショーレムと徹夜でトランプやチェスを行い大量のブラックコーヒーを飲んで検査に臨んだりしていた。この体験からベンヤミンは彼と無二の友人となった。そして、ユダヤ思想を彼から学ぶことになる。

1915年に一年間の兵役免除になったベンヤミンは10月末にミュンヘン大学に転入。1914年に結婚した女性がいたが、別の女性と恋仲に陥り離婚。ミュンヘン大学で出会った女性と付き合うようになる。徴兵を受けるときには彼女に腰痛になる催眠術をかけてもらい兵役検査を逃れ、さらに治療のためスイスへのに出国が認められ1917年に結婚したのち、スイスへと赴く。ベンヤミンはベルンに居を構え、ベルン大学に転入した。大学ではフロイトやニーチェの研究に熱を入れた。この頃ダダイストと仲がよくなり、特にゲオルク・ルカーチの『小説の理論』からは影響を受けた。1918年に長男が誕生。

1919年、ベルン大学で最優秀の成績で博士号を取得。ベンヤミンはこのまま教授資格を得てスイスに定住しようと思っていたが金銭的な事情で断念した。1920年ベルリンへと帰る。

1921年『暴力批判論』発表。ジョルジュ・ソレルの『暴力論』に影響を受けたこの論文は神学的な観点に基づいた革命理論だった。金銭的困難のため身内から出版屋か本屋になれと言われていたベンヤミンは同年『新しき天使』と名付けた雑誌の発刊を試みるが1922年頃から激化したインフレーションにより出版社が印刷費の提供を拒否。雑誌の出版は諦めることになる。さらに古書売買の店を作ることに乗り気ではあったが実現しなかった。 1923年にはインフレによりさらに生活が困窮し、友人のショーレムはドイツに見切りをつけエルサレムへと移住した。ベンヤミンもまた、この頃に国外への移住を考えていた。この時期は英語が堪能な妻の翻訳業から出る収入によって生活を送っていたが、妻が失業。『ゲーテの「親和力」について』という論文を発表。この論文はユーラ・コーンという女性にささげられており妻との結婚生活の破たんが反映されていた。

1924年にはインフレが終息しはじめ、よく旅行をすることになる。フランクフルト大学で教授資格を得るための論文執筆のためにナポリ沖合のカプリ島に滞在する。この島で彼はアーシャ・ラッイスという女性に出会う。1925年に論文を大学側に提出するも、内容が難解であったために却下。秋頃にスペインとイタリアを旅行し、ラトヴィアにおいてアーシャと再会。1926年には3月から10月までフランスのパリに滞在し、友人とはじめていたマルセル・プルースト『失われた時を求めて』の翻訳を続けるとともにエッセイ『一方通行路』を執筆した。パリでの体験はのちに代表作となる「パリのパサージュ論(パリの遊歩街論)」に関する構想を生んだ。

1927年モスクワを旅行。モスクワの病院に入院していたアーシャと会う。アーシャとともに共産党に入党しようとしたが、当時のロシアはトロツキーが国外追放されスターリンの時代が始まりユダヤ人の排斥が始まる時分だったことから断念。

1926年頃から新聞の文芸欄の寄稿家として活動を始める。1933年までにベンヤミンはこれらの新聞に30編から50編の評論を発表し評論家として大きな位置を占めるようになってきていた。

1928年ショーレムによりエルサレム大学に招かれるも反古にする。アーシャと同棲を開始。妻との生活の破たんが決定的となる。翌年の6月には離婚訴訟を開始。1930年には正式に離婚が成立する。アーシャは劇作家のベルトルト・ブレヒトと交流があり、ベンヤミンがブレヒトと関係を結ぶきっかけとなる。 31年には自殺を決意するも思いとどまる。1933年ヒトラーが首相になるとパリへ亡命。ベンヤミンは極貧であったが仲間の所属する研究機関から論文を発表することができた。「パリのパサージュ論」の研究に没頭。

1934年も研究機関から給金が出るものの極貧であった。イタリアにある離婚した妻の経営する宿屋に滞在したりしていた。 1939年共産主義者とみなされドイツ市民権をはく奪される。 1940年、6月にパリが陥落。ベンヤミンは5月下旬に南フランスのスペイン国境付近に逃げアメリカへの逃亡を計画し、ビザを取得するがフランスの出国ビザを得られずポルトガルのリスボンに出てそこからアメリカへの渡航を企てるもスペインに入国してすぐに警察に拘留。フランスへ送還される可能性があったため隠し持っていたモルヒネで自殺。なお、ベンヤミンの死には不可解な部分もあり暗殺の可能性もある。

その思想

文化社会学者として、史的唯物論とユダヤ的神秘主義を結びつけた。エッセイのかたちを採った自由闊達なエスプリの豊かさと文化史、精神史に通暁した思索の深さ、20、21世紀の都市と人々の有り様を冷徹に予見したような分析には定評がある。

参考文献・引用

人と思想「ベンヤミン」 村上隆夫・著 清水書院

Wikipedia「ヴァルター・ベンヤミン」

HN:いじげん


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