宇野要三郎

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- 宇野要三郎(うの ようざぶろう)は、1878(明治11)年青森県南津軽郡六郷村(現黒石市)に産まれ、1885(明治18)年、六郷尋常小学校(現六郷小学校)に入学し、その後黒石高等小学校、弘前中学校(現弘前高等学校)を出て仙台の第二高等学校(現東北大学)に進み、更に京都帝国大学(現京都大学)を1904(明治37)年に卒業した。その後はすぐ司法界に入って裁判官の道を進み、ついに大審院(明治憲法下で、通常の裁判所中最上級審の裁判所。長は判事の中から天皇が決める。現最高裁判所。)刑事部長に就任した。退いてからは、国家公安審査委員会委員長となった。+<nowiki> 宇野要三郎(うの ようざぶろう)は、1878(明治11)年青森県南津軽郡六郷村(現黒石市)に産まれ、1885(明治18)年、六郷尋常小学校(現六郷小学校)に入学し、その後黒石高等小学校、弘前中学校(現弘前高等学校)を出て仙台の第二高等学校(現東北大学)に進み、更に京都帝国大学(現京都大学)を1904(明治37)年に卒業した。その後はすぐ司法界に入って裁判官の道を進み、ついに大審院(明治憲法下で、通常の裁判所中最上級審の裁判所。長は判事の中から天皇が決める。現最高裁判所。)刑事部長に就任した。退いてからは、国家公安審査委員会委員長となった。
 この間に、わが国最初の陪審裁判準備のため、欧米各国に渡って制度の調査にあたり、制度を取り入れてからはその最高の権威者となった。  この間に、わが国最初の陪審裁判準備のため、欧米各国に渡って制度の調査にあたり、制度を取り入れてからはその最高の権威者となった。
また、40数年間法廷の仕事を担当して、扱った事件の中には難事中の難事も数多く含まれている。要三郎は判事として、いつでも清い心で欲のない公正な取扱いの仕方を貫き通し、わが国裁判史上輝かしい一ページを飾っている。 また、40数年間法廷の仕事を担当して、扱った事件の中には難事中の難事も数多く含まれている。要三郎は判事として、いつでも清い心で欲のない公正な取扱いの仕方を貫き通し、わが国裁判史上輝かしい一ページを飾っている。
 また、修養社(現青森県学生寮)が建設されてすぐその理事として選ばれ、やがて理事長となって郷土の子弟の教育にあたるため、率先して物心両面の協力と指導を行ったので、今なお慕っている者が多い。  また、修養社(現青森県学生寮)が建設されてすぐその理事として選ばれ、やがて理事長となって郷土の子弟の教育にあたるため、率先して物心両面の協力と指導を行ったので、今なお慕っている者が多い。
 要三郎は、スポーツにおいてもやり出せばどこまでもやりとげる人だった。中学時代には柔道・剣道に野球を好み選手として活躍し、高等学校時代はボートの選手、大学時代にはテニス・乗馬をたしなんだ。裁判官時代は専ら弓道に励み、弓道界初の最高位十段を贈られ、全日本弓道連盟会長となった。  要三郎は、スポーツにおいてもやり出せばどこまでもやりとげる人だった。中学時代には柔道・剣道に野球を好み選手として活躍し、高等学校時代はボートの選手、大学時代にはテニス・乗馬をたしなんだ。裁判官時代は専ら弓道に励み、弓道界初の最高位十段を贈られ、全日本弓道連盟会長となった。
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== 生涯 == == 生涯 ==
- 宇野要三郎は、1878(明治11)年9月に、黒石市大字上十川字留岡に、父宇野清左衛門と母りちの二男として誕生した。長女みよ、二女ふよ、長男勇作、三男要五郎の五人兄弟である。+ 
 +<nowiki> 1878(明治11)年9月に、黒石市大字上十川字留岡に、父宇野清左衛門と母りちの二男として誕生した。長女みよ、二女ふよ、長男勇作、三男要五郎の五人兄弟である。
 父清左衛門は大地主で、県下でも有数の多額納税者であり、1914(大正3)年に貴族院議員に当選した政治家でもある。  父清左衛門は大地主で、県下でも有数の多額納税者であり、1914(大正3)年に貴族院議員に当選した政治家でもある。
 要三郎の生まれ育った家は、現在もそのまま上十川にあり、かやぶきの母屋や白塗りの土蔵が当時のまま残されている。弘前中学校を卒業するまでこの家にいて生活していたのであるが、このように一般の人々とは異なった生活環境にあったので、勉強することの好きな要三郎にとっては、とても恵まれていたと言えよう。  要三郎の生まれ育った家は、現在もそのまま上十川にあり、かやぶきの母屋や白塗りの土蔵が当時のまま残されている。弘前中学校を卒業するまでこの家にいて生活していたのであるが、このように一般の人々とは異なった生活環境にあったので、勉強することの好きな要三郎にとっては、とても恵まれていたと言えよう。
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 1941(昭和16)年9月に停年退職した後は、大日本武徳会理事長、副会長、渋谷区連合町会長、東京都連合防火協会常務理事となり、1947(昭和22)年7月には弁護士登録をして、東京第一弁護士会に所属した。1952(昭和27)年には国家公安審査委員会委員長となり、1956(昭和31)年同委員長を退職後、1960(昭和35)年には前に述べたように黒石市名誉市民に推戴された。  1941(昭和16)年9月に停年退職した後は、大日本武徳会理事長、副会長、渋谷区連合町会長、東京都連合防火協会常務理事となり、1947(昭和22)年7月には弁護士登録をして、東京第一弁護士会に所属した。1952(昭和27)年には国家公安審査委員会委員長となり、1956(昭和31)年同委員長を退職後、1960(昭和35)年には前に述べたように黒石市名誉市民に推戴された。
 1962(昭和37)年には全日本弓道連盟会長となり、1969(昭和44)年3月22日に91歳で他界された。  1962(昭和37)年には全日本弓道連盟会長となり、1969(昭和44)年3月22日に91歳で他界された。
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== 弓道 == == 弓道 ==
- 日置流紀州竹林派の岡内木範士に師事し、最も熱心に修業され、大正三年同師より同派正派の印可を受け、同四年大日本武徳会より精錬証を授与された。+ 
 +<nowiki> 日置流紀州竹林派の岡内木範士に師事し、最も熱心に修業され、大正三年同師より同派正派の印可を受け、同四年大日本武徳会より精錬証を授与された。
その後昭和四年に弓道教士を、昭和十五年弓道範士を授与された。昭和十六年に武徳会常務理事および理事長として弓道部長を兼ね、終戦後全日本弓道連盟会長に就任。その後公安審議委員長の要職に就かれた。弓道範士十段、竹隠と号される。 その後昭和四年に弓道教士を、昭和十五年弓道範士を授与された。昭和十六年に武徳会常務理事および理事長として弓道部長を兼ね、終戦後全日本弓道連盟会長に就任。その後公安審議委員長の要職に就かれた。弓道範士十段、竹隠と号される。
-現在では、財団法人全日本弓道連盟創設の功績を称えられ、千葉胤次範士、浦上栄範士、神永政吉範士、高木棐範士らと共に五先生に数えられている。+現在では、財団法人全日本弓道連盟創設の功績を称えられ、千葉胤次範士、浦上栄範士、神永政吉範士、高木棐範士らと共に五先生に数えられている。</nowiki>
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== 参考・引用文献 == == 参考・引用文献 ==
-弓道教本 第二巻 射技篇 財団法人 全日本弓道連盟編+<nowiki>弓道教本 第二巻 射技篇 財団法人 全日本弓道連盟編</nowiki>
-http://www.net.pref.aomori.jp/kuroishi/index.html+<nowiki>青森県 黒石市  http://www.net.pref.aomori.jp/kuroishi/index.html</nowiki>

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 宇野要三郎(うの ようざぶろう)は、1878(明治11)年青森県南津軽郡六郷村(現黒石市)に産まれ、1885(明治18)年、六郷尋常小学校(現六郷小学校)に入学し、その後黒石高等小学校、弘前中学校(現弘前高等学校)を出て仙台の第二高等学校(現東北大学)に進み、更に京都帝国大学(現京都大学)を1904(明治37)年に卒業した。その後はすぐ司法界に入って裁判官の道を進み、ついに大審院(明治憲法下で、通常の裁判所中最上級審の裁判所。長は判事の中から天皇が決める。現最高裁判所。)刑事部長に就任した。退いてからは、国家公安審査委員会委員長となった。  この間に、わが国最初の陪審裁判準備のため、欧米各国に渡って制度の調査にあたり、制度を取り入れてからはその最高の権威者となった。 また、40数年間法廷の仕事を担当して、扱った事件の中には難事中の難事も数多く含まれている。要三郎は判事として、いつでも清い心で欲のない公正な取扱いの仕方を貫き通し、わが国裁判史上輝かしい一ページを飾っている。  また、修養社(現青森県学生寮)が建設されてすぐその理事として選ばれ、やがて理事長となって郷土の子弟の教育にあたるため、率先して物心両面の協力と指導を行ったので、今なお慕っている者が多い。  要三郎は、スポーツにおいてもやり出せばどこまでもやりとげる人だった。中学時代には柔道・剣道に野球を好み選手として活躍し、高等学校時代はボートの選手、大学時代にはテニス・乗馬をたしなんだ。裁判官時代は専ら弓道に励み、弓道界初の最高位十段を贈られ、全日本弓道連盟会長となった。


生涯

 1878(明治11)年9月に、黒石市大字上十川字留岡に、父宇野清左衛門と母りちの二男として誕生した。長女みよ、二女ふよ、長男勇作、三男要五郎の五人兄弟である。  父清左衛門は大地主で、県下でも有数の多額納税者であり、1914(大正3)年に貴族院議員に当選した政治家でもある。  要三郎の生まれ育った家は、現在もそのまま上十川にあり、かやぶきの母屋や白塗りの土蔵が当時のまま残されている。弘前中学校を卒業するまでこの家にいて生活していたのであるが、このように一般の人々とは異なった生活環境にあったので、勉強することの好きな要三郎にとっては、とても恵まれていたと言えよう。  二高に進んだ時から住みなれた家を出ることになった。京都帝国大学を卒業して裁判官の道を歩み、一人立ちできるようになったので、1906(明治39)年6月に東京都出身の植村ともゑと結婚。裁判官としての初任地神戸市に8年間在住後、大津市、浦和市を経て、1917(大正6)年東京都に移り渋谷区に落ちついた。そして長女ハル、長男俊朗はじめ三男三女をもうけた。  要三郎は、京都帝国大学独法科を1904(明治37)年に卒業してから、すぐ神戸地方裁判所詰の司法官試補となり、その後は神戸地方裁判所判事、大津地方裁判所部長、浦和地方裁判所部長、東京控訴院判事、東京地方裁判所部長を勤め、1923(大正12)年には、陪審裁判視察のため欧米各国へ出張した。  1924(大正13)年には東京控訴院部長となり、更に東京地方裁判所部長、大審院判事(高等官二等)、横浜地方裁判所長、東京地方裁判所長(高等官一等)を経て、1934(昭和9)年8月には大審院刑事部長に就任した。  1941(昭和16)年9月に停年退職した後は、大日本武徳会理事長、副会長、渋谷区連合町会長、東京都連合防火協会常務理事となり、1947(昭和22)年7月には弁護士登録をして、東京第一弁護士会に所属した。1952(昭和27)年には国家公安審査委員会委員長となり、1956(昭和31)年同委員長を退職後、1960(昭和35)年には前に述べたように黒石市名誉市民に推戴された。  1962(昭和37)年には全日本弓道連盟会長となり、1969(昭和44)年3月22日に91歳で他界された。


弓道

 日置流紀州竹林派の岡内木範士に師事し、最も熱心に修業され、大正三年同師より同派正派の印可を受け、同四年大日本武徳会より精錬証を授与された。 その後昭和四年に弓道教士を、昭和十五年弓道範士を授与された。昭和十六年に武徳会常務理事および理事長として弓道部長を兼ね、終戦後全日本弓道連盟会長に就任。その後公安審議委員長の要職に就かれた。弓道範士十段、竹隠と号される。 現在では、財団法人全日本弓道連盟創設の功績を称えられ、千葉胤次範士、浦上栄範士、神永政吉範士、高木棐範士らと共に五先生に数えられている。


参考・引用文献

弓道教本 第二巻 射技篇 財団法人 全日本弓道連盟編

青森県 黒石市  http://www.net.pref.aomori.jp/kuroishi/index.html


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