アルジェリア戦争

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アルジェリア民族解放戦線(FLN)によって1954年から62年まで続けられたフランスに対する民族解放戦争。
アルジェリアは1830年にフランスによって侵略され、1834年以降その植民地支配のもとに置かれることになったが、
以来白人移民(コロン)によるアルジェリア人の土地の収奪が進められ、
またアルジェリア人に対する差別的な政策が導入された。
この間アブデル・カーデルの反乱をはじめ数多くの抵抗運動が断続的に起こったが、ことごとく鎮圧された。
第一次世界大戦後フランスは部分的な改革を実施したがアルジェリア人の多くは満足せず、
1926年にはパリ在住アルジェリア人(およびチュニジア人)の間に「北アフリカの星」という名の政治組織が創設され、近代的な民族運動の時代が到来した。
「北アフリカの星」は30年代なかば以降アルジェに本拠を移し、民族運動はいっそう盛り上がったが、第二次大戦中ビシー政府の手で運動は弾圧され、
「北アフリカの星」の後身であるアルジェリア人民党は禁止された。
大戦末期に創設された「宣言と自由の友の会」はアルジェリアの自治を要求したが、戦後の植民地改革にもかかわらず、
アルジェリアはあくまでもフランス本土の一部とされたため、民族主義者の不満は限界に達した。
1954年11月FLNによって東部山岳地帯で開始された武装蜂起(ほうき)は、しだいに全国の農村地帯へ広がり、
都市でもサボタージュやテロによる抵抗運動が頻発するに至った。
これに対しフランスは、当初延べ5万人にすぎなかったアルジェリア駐留軍を58年までに50万人余りに増強し、
解放闘争の鎮圧を図ったが成功せず、国内世論の分裂、巨額の戦費による財政難などによって、ついに第四共和政そのものの危機を招く結果となった。
この危機を打開するためフランスは、58年2月、宥和(ゆうわ)政策として地方自治の拡大を骨子とする新アルジェリア基本法を成立させたが、
これはアルジェリア人を満足させなかったばかりか、かえってアルジェリア駐留フランス軍の反乱を誘発することになった。
そこで、軍の支持を背景にドゴール将軍が政権を掌握して、同年10月に第五共和政を発足させた。
他方、同年9月にはエジプトのカイロにアルジェリア共和国臨時政府が樹立され、ドゴール政府も9月にアルジェリア自決権を承認し、
その後62年3月の停戦協定(エビアン協定)、同年7月の住民投票を経て、アルジェリアは独立を達成したのである。


参考ページ
Wikipedia  http://ja.wikipedia.org/


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