ルドヴィコ・ザメンホフ
出典: Jinkawiki
2010年6月14日 (月) 13:02の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
最新版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) |
||
1 行 | 1 行 | ||
- | ルドヴィコ・ザメンホフ(1858年12月15日-1917年4月14日)はエスペラントを開発したユダヤ系の医者として知られる。ポーランドで出生したザメンホフの母語はロシア語だが彼は言語に優れておりポーランド語、ドイツ語を流暢に話した。それだけでなく後年フランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語も学んだ。さらにイディッシュ語、イタリア語、スペイン語、リトアニア語にも興味を抱いていた。 | + | == 概要 == |
+ | ルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ(1859年12月15日 - 1917年4月14日)はユダヤ系ポーランド人の眼科医・言語学者で、現在のところ最も広く使われている人工言語エスペラントの創案者。本名はエリエゼル・レヴィ・ザメンホフ。 | ||
- | ユダヤ人の血筋を持つヘブライ語の言語学者の父と一般人の母(父はユダヤ教の教義は捨てている)の下に生まれた。ザメンホフの生まれた当時のポーランドは帝政ロシアの支配下にあり四つの言語(ロシア語、ポーランド語、ドイツ語、イディッシュ語)を話すユダヤ人のグループに分断されていた。それらの集団が大人はもちろんのこと子供たちまでも石を投げ合ったり、殴りあったり、罵り合ったりして憎しみ合うさまを幼少期からみており母から習った「人間は皆神様の子供だ」という教義に疑いを持った。 | + | == 来歴 == |
+ | 母語はロシア語だったが、ポーランド語、ドイツ語も流暢に話し、後にはフランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、英語も学んだ。さらに彼はイディッシュ語、イタリア語、スペイン語、リトアニア語にも興味を持っていた。 | ||
- | '''「私は、グロドノ県のビアリストクに生まれました。生誕し幼年期をすごしたこの場所が、私の将来の活動方向を決定したのです。ピアリストクには、四つの異なる民族が住んでいました。ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人です。それぞれ言葉が違い、互いに不和反目していました。感じやすい心を持つ人は、どこにもましてこの町で、言語の相違という重荷を痛感します。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、しだいに確信するようになるのです。私は理想主義者として育ちました。人はすべて兄弟だと教えられました。ところが、通りでも広場でも一足歩くたびに、-------引用(マージョリー・ボウルトン・著、水野義明・訳、新泉社、1993年11月1日発行「エスペラントの創始者ザメンホフ」23P) | + | ザメンホフは1859年にポーランド北東部のビャウィストクで生まれた。当時、ポーランドは帝政ロシア領で、町の人々は4つの主な民族(ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、イディッシュ語を話す大勢のユダヤ人)のグループに分断されていた。ザメンホフはグループの間に起こる不和に悲嘆し、また憤りを覚えていた。彼は憎しみや偏見の主な原因が、民族的・言語的な基盤の異なる人々の間で中立的なコミュニケーションの道具として働くべき共通の言語がないことから起こる相互の不理解にあると考えた。 |
- | ''' | + | |
- | HN:いじげん | + | ワルシャワの中等学校に通いながら、ザメンホフはある種の国際語を作ろうと試みた。それは文法が非常に豊富な一方で、大変複雑なものでもあった。ザメンホフは(ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語と共に)英語を学んだ際に、国際補助語には動詞の人称変化は必要ではなく、比較的簡単な文法を持ちながら、語の新しい形を作るのに接頭辞・接尾辞を幅広く用いるようなものでなくてはならない、という構想を固める。 |
+ | |||
+ | 1878年までにザメンホフの「リングヴェ・ウニヴェルサーラ」(普遍語)はほとんど完成しかけていたが、若すぎたために著書を出版することができなかった。卒業後すぐにザメンホフは医学を、最初はモスクワで、次にワルシャワで学び始める。1885年には大学を卒業し、眼科医として開業する。患者を治療する傍ら、ザメンホフは国際語の計画を進める。 | ||
+ | |||
+ | ザメンホフは国際語を述べた著書を出版すべく、2年にわたって基金を設立しようと試みるが、後に妻となる女性クララ・ジルベルニクの父親から経済的な援助を受けることで、その必要はなくなった。1887年には "Doktoro Esperanto. Lingvo internacia. Antaŭparolo kaj plena lernolibro"(「エスペラント(希望する人)博士、国際語、序文と完全なテキスト」)と題された著書が出版されることになる。ザメンホフにとってこの言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、異なる人々や文化の平和的な共存という自らの理念を広げる手段でもあった。 | ||
+ | |||
+ | ザメンホフは1917年にワルシャワで心臓病のために亡くなった。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | == 著書 == | ||
+ | Unua Libro(1887年):エスペラントの教科書。 | ||
+ | |||
+ | Dua Libro(1888年):『第二の書』とも。アンデルセンなどの翻訳を収める。 | ||
+ | |||
+ | エスペラントの基礎(Fundamento de Esperanto、1905年) | ||
+ | |||
+ | エスペラント訳ことわざ集(1910年) | ||
+ | |||
+ | == 参考HP == | ||
+ | http://www.visitbialystok.com/ | ||
+ | |||
+ | http://ja.wikipedia.org/ | ||
+ | |||
+ | |||
+ | (TS91) |
最新版
目次 |
概要
ルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ(1859年12月15日 - 1917年4月14日)はユダヤ系ポーランド人の眼科医・言語学者で、現在のところ最も広く使われている人工言語エスペラントの創案者。本名はエリエゼル・レヴィ・ザメンホフ。
来歴
母語はロシア語だったが、ポーランド語、ドイツ語も流暢に話し、後にはフランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、英語も学んだ。さらに彼はイディッシュ語、イタリア語、スペイン語、リトアニア語にも興味を持っていた。
ザメンホフは1859年にポーランド北東部のビャウィストクで生まれた。当時、ポーランドは帝政ロシア領で、町の人々は4つの主な民族(ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、イディッシュ語を話す大勢のユダヤ人)のグループに分断されていた。ザメンホフはグループの間に起こる不和に悲嘆し、また憤りを覚えていた。彼は憎しみや偏見の主な原因が、民族的・言語的な基盤の異なる人々の間で中立的なコミュニケーションの道具として働くべき共通の言語がないことから起こる相互の不理解にあると考えた。
ワルシャワの中等学校に通いながら、ザメンホフはある種の国際語を作ろうと試みた。それは文法が非常に豊富な一方で、大変複雑なものでもあった。ザメンホフは(ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語と共に)英語を学んだ際に、国際補助語には動詞の人称変化は必要ではなく、比較的簡単な文法を持ちながら、語の新しい形を作るのに接頭辞・接尾辞を幅広く用いるようなものでなくてはならない、という構想を固める。
1878年までにザメンホフの「リングヴェ・ウニヴェルサーラ」(普遍語)はほとんど完成しかけていたが、若すぎたために著書を出版することができなかった。卒業後すぐにザメンホフは医学を、最初はモスクワで、次にワルシャワで学び始める。1885年には大学を卒業し、眼科医として開業する。患者を治療する傍ら、ザメンホフは国際語の計画を進める。
ザメンホフは国際語を述べた著書を出版すべく、2年にわたって基金を設立しようと試みるが、後に妻となる女性クララ・ジルベルニクの父親から経済的な援助を受けることで、その必要はなくなった。1887年には "Doktoro Esperanto. Lingvo internacia. Antaŭparolo kaj plena lernolibro"(「エスペラント(希望する人)博士、国際語、序文と完全なテキスト」)と題された著書が出版されることになる。ザメンホフにとってこの言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、異なる人々や文化の平和的な共存という自らの理念を広げる手段でもあった。
ザメンホフは1917年にワルシャワで心臓病のために亡くなった。
著書
Unua Libro(1887年):エスペラントの教科書。
Dua Libro(1888年):『第二の書』とも。アンデルセンなどの翻訳を収める。
エスペラントの基礎(Fundamento de Esperanto、1905年)
エスペラント訳ことわざ集(1910年)
参考HP
http://www.visitbialystok.com/
(TS91)