マルクス
出典: Jinkawiki
2011年1月30日 (日) 17:34の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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ライン州トリア市のユダヤ人名門家族に生まれる。父は弁護士。ボン大学およびベルリン大学で法学を学ぶ。バウアーの薫陶のもとにヘーゲル左派の一因となり、1841年にイエナ大学で哲学の学位を取得。折しくもヘーゲル学派退治が始まり、教職に就くことは断念、『ライン新聞』の編集者となる。43年に退社、兼ねて家族的交際のあったヴェストファーレン男爵家の令嬢イエンニーと結婚、ルーゲと『独仏年始』共同発行すべくパリに赴く。年始は初号のみで終わったが、ルイ・ブランやプルードンなどとも相知り『経済学・哲学手稿』を44年に執筆。45年にブリュッセルに移り、エンゲルスやヘスと共著『ドイツイデオロギー』を執筆、46年からは実践運動に乗り出し、「共産主義通信委員会」を結成、47年にはヴァイトリングの「義人同盟」に介入して「共産主義者同盟」に改組、その綱領的文書『共産党宣言』(1848)を起草した。48年革命期には帰国して『新ライン新聞』を発行、運動の敗北後ロンドンに亡命。50年代からは政治・社会評論家として活躍する傍ら経済学の研究に努め、59年に『経済学批判』第1分冊を公刊するに及んだ。64年にはチャーチスト、ブランキー派、ラッサール派、バクーニン派なども糾合した第一インターの指導者となり、67年に『資本論』第1分冊を刊行した。第一インターは71年のパリ・コミューンへの対応をめぐって紛糾、バクーニン派などとの確執もあって74年に解体したがその後フランスやドイツでマルクス派の組織が漸次成長した。83年に『資本論』第2,3,4巻の未定稿を遺して、肝臓がんで死亡。 | ライン州トリア市のユダヤ人名門家族に生まれる。父は弁護士。ボン大学およびベルリン大学で法学を学ぶ。バウアーの薫陶のもとにヘーゲル左派の一因となり、1841年にイエナ大学で哲学の学位を取得。折しくもヘーゲル学派退治が始まり、教職に就くことは断念、『ライン新聞』の編集者となる。43年に退社、兼ねて家族的交際のあったヴェストファーレン男爵家の令嬢イエンニーと結婚、ルーゲと『独仏年始』共同発行すべくパリに赴く。年始は初号のみで終わったが、ルイ・ブランやプルードンなどとも相知り『経済学・哲学手稿』を44年に執筆。45年にブリュッセルに移り、エンゲルスやヘスと共著『ドイツイデオロギー』を執筆、46年からは実践運動に乗り出し、「共産主義通信委員会」を結成、47年にはヴァイトリングの「義人同盟」に介入して「共産主義者同盟」に改組、その綱領的文書『共産党宣言』(1848)を起草した。48年革命期には帰国して『新ライン新聞』を発行、運動の敗北後ロンドンに亡命。50年代からは政治・社会評論家として活躍する傍ら経済学の研究に努め、59年に『経済学批判』第1分冊を公刊するに及んだ。64年にはチャーチスト、ブランキー派、ラッサール派、バクーニン派なども糾合した第一インターの指導者となり、67年に『資本論』第1分冊を刊行した。第一インターは71年のパリ・コミューンへの対応をめぐって紛糾、バクーニン派などとの確執もあって74年に解体したがその後フランスやドイツでマルクス派の組織が漸次成長した。83年に『資本論』第2,3,4巻の未定稿を遺して、肝臓がんで死亡。 | ||
=マルクスの社会学的観点= | =マルクスの社会学的観点= | ||
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マルクスは弁証的唯物論の哲学や資本論の経済学で著名ではあるが、彼の理論は社会学とも無関係ではない。ロシア・マルクス主義の父であるプレハーノフは「史的唯物論は社会学へのプロレゴーメナである」といい、ブハーリンは「史的唯物論はマルクス主義社会学そのものである」と言っている。いずれにせよ、唯物史観という際の、「史」は協議の通時的歴史だけではなく、広く「人間界の出来事」つまり「社会的事象」を意味するのであって、史的唯物論はマクロ社会学的な社会構造論・社会動態論を含む。マルクスは社会学の始祖コントより20歳後輩であるがシュタインやスペンサーとほぼ同時代人であり、産業資本主義の発展期に理論形成を遂げた経緯において、社会学の開祖たちと学史的問題状況を共有している。彼らの思想形成期には、もはや17・18世紀流の社会唯名論は墨守され難しくなっており、社会という独自な存在の実在性と固有の内在的法則性が現認されやすい状況になっていた。丸く市の場合ギムナジウムでは啓蒙主義的な教育を受けていたが、大学時代の知的環境は、啓蒙的個人主義を否定するロマン主義とヘーゲル主義が支配的であり『ライン新聞』編集長時代までは、一種の民族国家有機体観半ば囚われていた。その後、フォエイルバッハの類的存在論・人間疎外論に立脚した史観を築きかけた折に、シュティルナーの『唯物者とその所有』による批判に直面し、普遍と個別、類と個の問題について抜本的に考え直す次第となった。その過程で、類的本質であれ個的実存であれ、人間を実体視する発想を斥けると同時に、社会を実体視する発想も斥け、したがって、社会唯名論と社会実在論とを双方ともに斥ける見地に立ち、新しい人間観、新しい社会観を確立した。それは「人間の本質は社会的諸関係の総体である」と観じ、しかも、社会を「人々の対自然的かつ総合的な諸関係」に即して規定する見地である。 | マルクスは弁証的唯物論の哲学や資本論の経済学で著名ではあるが、彼の理論は社会学とも無関係ではない。ロシア・マルクス主義の父であるプレハーノフは「史的唯物論は社会学へのプロレゴーメナである」といい、ブハーリンは「史的唯物論はマルクス主義社会学そのものである」と言っている。いずれにせよ、唯物史観という際の、「史」は協議の通時的歴史だけではなく、広く「人間界の出来事」つまり「社会的事象」を意味するのであって、史的唯物論はマクロ社会学的な社会構造論・社会動態論を含む。マルクスは社会学の始祖コントより20歳後輩であるがシュタインやスペンサーとほぼ同時代人であり、産業資本主義の発展期に理論形成を遂げた経緯において、社会学の開祖たちと学史的問題状況を共有している。彼らの思想形成期には、もはや17・18世紀流の社会唯名論は墨守され難しくなっており、社会という独自な存在の実在性と固有の内在的法則性が現認されやすい状況になっていた。丸く市の場合ギムナジウムでは啓蒙主義的な教育を受けていたが、大学時代の知的環境は、啓蒙的個人主義を否定するロマン主義とヘーゲル主義が支配的であり『ライン新聞』編集長時代までは、一種の民族国家有機体観半ば囚われていた。その後、フォエイルバッハの類的存在論・人間疎外論に立脚した史観を築きかけた折に、シュティルナーの『唯物者とその所有』による批判に直面し、普遍と個別、類と個の問題について抜本的に考え直す次第となった。その過程で、類的本質であれ個的実存であれ、人間を実体視する発想を斥けると同時に、社会を実体視する発想も斥け、したがって、社会唯名論と社会実在論とを双方ともに斥ける見地に立ち、新しい人間観、新しい社会観を確立した。それは「人間の本質は社会的諸関係の総体である」と観じ、しかも、社会を「人々の対自然的かつ総合的な諸関係」に即して規定する見地である。 | ||
マルクスによれば、社会なるのもが独立の実態でないのは無論のこと、社会は諸個人からなる集団でもない。「社会とは諸個人の関わりあい、関係諸行為そのもの」に他ならない。ただし、当事者たちの日常意識やそれを無批判的に追認する視座にとっては、当の諸関係が物象化した相で現出し、片や実体的人格の想念を生じ、片や諸々の社会的形象の自存的存在視を生じる。マルクスは『資本論』において、この物象化された視界に内在する人々の営為が当の物象化態勢を再生産し続ける機制を、商品経済体制に即して具体的に分析してみせている。マルクスは『経済学批判』序文中の俗に唯物史観の公式と呼ばれる個所で、社会構成体の建物を比喩で説き、物質的生産の諸関係が土台をなし、その上に法制的、政治的な上部構造および社会的意識諸形態が乗っている構図を描いた。しかしこれは、理念や政治が歴史の主導因であるとする従前の歴史観を斥けるものであって、政治過程やイデオロギー的営為が経済的過程から実態的に分離していると言おうとするものではない。物象化された視界においては、なるほど、経済機構と政治制度と精神文化とは個別に観ぜられるにしても、現実の行為連関においては、それらは不可分的に統合されている。アクチュアルな社会的関係態をマルクスは分業的協働の編成態としており、エンゲルスは階級をも固定化された分業の一形態と規定しているほどである。社会的機構・規範・権力の体系が物象化して法則的に遷移する「必然の国」を止揚して「自由の国」を実現するためには、階級的分業をもたらす、私有財産制の廃止を必要条件としつつ、固定的分業制が廃止されなければならない、という彼らの共産主義社会論もそこから導かれる。 | マルクスによれば、社会なるのもが独立の実態でないのは無論のこと、社会は諸個人からなる集団でもない。「社会とは諸個人の関わりあい、関係諸行為そのもの」に他ならない。ただし、当事者たちの日常意識やそれを無批判的に追認する視座にとっては、当の諸関係が物象化した相で現出し、片や実体的人格の想念を生じ、片や諸々の社会的形象の自存的存在視を生じる。マルクスは『資本論』において、この物象化された視界に内在する人々の営為が当の物象化態勢を再生産し続ける機制を、商品経済体制に即して具体的に分析してみせている。マルクスは『経済学批判』序文中の俗に唯物史観の公式と呼ばれる個所で、社会構成体の建物を比喩で説き、物質的生産の諸関係が土台をなし、その上に法制的、政治的な上部構造および社会的意識諸形態が乗っている構図を描いた。しかしこれは、理念や政治が歴史の主導因であるとする従前の歴史観を斥けるものであって、政治過程やイデオロギー的営為が経済的過程から実態的に分離していると言おうとするものではない。物象化された視界においては、なるほど、経済機構と政治制度と精神文化とは個別に観ぜられるにしても、現実の行為連関においては、それらは不可分的に統合されている。アクチュアルな社会的関係態をマルクスは分業的協働の編成態としており、エンゲルスは階級をも固定化された分業の一形態と規定しているほどである。社会的機構・規範・権力の体系が物象化して法則的に遷移する「必然の国」を止揚して「自由の国」を実現するためには、階級的分業をもたらす、私有財産制の廃止を必要条件としつつ、固定的分業制が廃止されなければならない、という彼らの共産主義社会論もそこから導かれる。 | ||
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+ | 社会学辞典 見田宗介・田中義久編 弘文堂 | ||
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+ | マルクス論 ブロッホ 作品社 | ||
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+ | http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9 |
最新版
カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、ドイツの経済学者、哲学者、革命家、ジャーナリスト。20世紀において最も影響力があった思想家の一人とされる。
=生い立ち=
ライン州トリア市のユダヤ人名門家族に生まれる。父は弁護士。ボン大学およびベルリン大学で法学を学ぶ。バウアーの薫陶のもとにヘーゲル左派の一因となり、1841年にイエナ大学で哲学の学位を取得。折しくもヘーゲル学派退治が始まり、教職に就くことは断念、『ライン新聞』の編集者となる。43年に退社、兼ねて家族的交際のあったヴェストファーレン男爵家の令嬢イエンニーと結婚、ルーゲと『独仏年始』共同発行すべくパリに赴く。年始は初号のみで終わったが、ルイ・ブランやプルードンなどとも相知り『経済学・哲学手稿』を44年に執筆。45年にブリュッセルに移り、エンゲルスやヘスと共著『ドイツイデオロギー』を執筆、46年からは実践運動に乗り出し、「共産主義通信委員会」を結成、47年にはヴァイトリングの「義人同盟」に介入して「共産主義者同盟」に改組、その綱領的文書『共産党宣言』(1848)を起草した。48年革命期には帰国して『新ライン新聞』を発行、運動の敗北後ロンドンに亡命。50年代からは政治・社会評論家として活躍する傍ら経済学の研究に努め、59年に『経済学批判』第1分冊を公刊するに及んだ。64年にはチャーチスト、ブランキー派、ラッサール派、バクーニン派なども糾合した第一インターの指導者となり、67年に『資本論』第1分冊を刊行した。第一インターは71年のパリ・コミューンへの対応をめぐって紛糾、バクーニン派などとの確執もあって74年に解体したがその後フランスやドイツでマルクス派の組織が漸次成長した。83年に『資本論』第2,3,4巻の未定稿を遺して、肝臓がんで死亡。
=マルクスの社会学的観点=
マルクスは弁証的唯物論の哲学や資本論の経済学で著名ではあるが、彼の理論は社会学とも無関係ではない。ロシア・マルクス主義の父であるプレハーノフは「史的唯物論は社会学へのプロレゴーメナである」といい、ブハーリンは「史的唯物論はマルクス主義社会学そのものである」と言っている。いずれにせよ、唯物史観という際の、「史」は協議の通時的歴史だけではなく、広く「人間界の出来事」つまり「社会的事象」を意味するのであって、史的唯物論はマクロ社会学的な社会構造論・社会動態論を含む。マルクスは社会学の始祖コントより20歳後輩であるがシュタインやスペンサーとほぼ同時代人であり、産業資本主義の発展期に理論形成を遂げた経緯において、社会学の開祖たちと学史的問題状況を共有している。彼らの思想形成期には、もはや17・18世紀流の社会唯名論は墨守され難しくなっており、社会という独自な存在の実在性と固有の内在的法則性が現認されやすい状況になっていた。丸く市の場合ギムナジウムでは啓蒙主義的な教育を受けていたが、大学時代の知的環境は、啓蒙的個人主義を否定するロマン主義とヘーゲル主義が支配的であり『ライン新聞』編集長時代までは、一種の民族国家有機体観半ば囚われていた。その後、フォエイルバッハの類的存在論・人間疎外論に立脚した史観を築きかけた折に、シュティルナーの『唯物者とその所有』による批判に直面し、普遍と個別、類と個の問題について抜本的に考え直す次第となった。その過程で、類的本質であれ個的実存であれ、人間を実体視する発想を斥けると同時に、社会を実体視する発想も斥け、したがって、社会唯名論と社会実在論とを双方ともに斥ける見地に立ち、新しい人間観、新しい社会観を確立した。それは「人間の本質は社会的諸関係の総体である」と観じ、しかも、社会を「人々の対自然的かつ総合的な諸関係」に即して規定する見地である。 マルクスによれば、社会なるのもが独立の実態でないのは無論のこと、社会は諸個人からなる集団でもない。「社会とは諸個人の関わりあい、関係諸行為そのもの」に他ならない。ただし、当事者たちの日常意識やそれを無批判的に追認する視座にとっては、当の諸関係が物象化した相で現出し、片や実体的人格の想念を生じ、片や諸々の社会的形象の自存的存在視を生じる。マルクスは『資本論』において、この物象化された視界に内在する人々の営為が当の物象化態勢を再生産し続ける機制を、商品経済体制に即して具体的に分析してみせている。マルクスは『経済学批判』序文中の俗に唯物史観の公式と呼ばれる個所で、社会構成体の建物を比喩で説き、物質的生産の諸関係が土台をなし、その上に法制的、政治的な上部構造および社会的意識諸形態が乗っている構図を描いた。しかしこれは、理念や政治が歴史の主導因であるとする従前の歴史観を斥けるものであって、政治過程やイデオロギー的営為が経済的過程から実態的に分離していると言おうとするものではない。物象化された視界においては、なるほど、経済機構と政治制度と精神文化とは個別に観ぜられるにしても、現実の行為連関においては、それらは不可分的に統合されている。アクチュアルな社会的関係態をマルクスは分業的協働の編成態としており、エンゲルスは階級をも固定化された分業の一形態と規定しているほどである。社会的機構・規範・権力の体系が物象化して法則的に遷移する「必然の国」を止揚して「自由の国」を実現するためには、階級的分業をもたらす、私有財産制の廃止を必要条件としつつ、固定的分業制が廃止されなければならない、という彼らの共産主義社会論もそこから導かれる。
出典
社会学辞典 見田宗介・田中義久編 弘文堂
マルクス論 ブロッホ 作品社