聖武天皇
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第四十五代の天皇。在位は七二四から七四九年。文武天皇の皇子。藤原不比等の娘光明子を皇后(光明皇后)とした。皇后とともに深く仏教を信じ、即位後も仏教の力によって、国家を治めようとして、諸国に国分寺や国分尼寺を建て、奈良には総国分寺としての東大寺を建立し、五丈六尺の盧 舎 那 仏(通俗的には奈良の大仏で知られる)を鋳造した。その開眼供養には、天皇自ら参列して「三宝の奴」とまで称した。また各地の寺に土地を寄進したので仏教はさかえ、それにともなって美術、工芸は発達し、いわゆる天平文化をつくりあげた。天皇の在位期間は、この天平文化が最も栄えた時期にあたっている。七四九年、孝謙天皇に位をゆずり、出家入道して勝満と号した。天皇の死後、天皇が愛用した数多くの品々が光明皇后から大仏に献ぜられ、正倉院に長く保存されてきた。 | 第四十五代の天皇。在位は七二四から七四九年。文武天皇の皇子。藤原不比等の娘光明子を皇后(光明皇后)とした。皇后とともに深く仏教を信じ、即位後も仏教の力によって、国家を治めようとして、諸国に国分寺や国分尼寺を建て、奈良には総国分寺としての東大寺を建立し、五丈六尺の盧 舎 那 仏(通俗的には奈良の大仏で知られる)を鋳造した。その開眼供養には、天皇自ら参列して「三宝の奴」とまで称した。また各地の寺に土地を寄進したので仏教はさかえ、それにともなって美術、工芸は発達し、いわゆる天平文化をつくりあげた。天皇の在位期間は、この天平文化が最も栄えた時期にあたっている。七四九年、孝謙天皇に位をゆずり、出家入道して勝満と号した。天皇の死後、天皇が愛用した数多くの品々が光明皇后から大仏に献ぜられ、正倉院に長く保存されてきた。 | ||
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2011年2月1日 (火) 15:44の版
第四十五代の天皇。在位は七二四から七四九年。文武天皇の皇子。藤原不比等の娘光明子を皇后(光明皇后)とした。皇后とともに深く仏教を信じ、即位後も仏教の力によって、国家を治めようとして、諸国に国分寺や国分尼寺を建て、奈良には総国分寺としての東大寺を建立し、五丈六尺の盧 舎 那 仏(通俗的には奈良の大仏で知られる)を鋳造した。その開眼供養には、天皇自ら参列して「三宝の奴」とまで称した。また各地の寺に土地を寄進したので仏教はさかえ、それにともなって美術、工芸は発達し、いわゆる天平文化をつくりあげた。天皇の在位期間は、この天平文化が最も栄えた時期にあたっている。七四九年、孝謙天皇に位をゆずり、出家入道して勝満と号した。天皇の死後、天皇が愛用した数多くの品々が光明皇后から大仏に献ぜられ、正倉院に長く保存されてきた。
出典 『学生世界人名事典』 教学研究社