真田幸村

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安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年齢の49歳から逆算されたもので、月日は不明。 安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年齢の49歳から逆算されたもので、月日は不明。
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大坂冬の陣の篭城戦で真田幸村は大坂城の弱点である城の南方に真田丸と呼ばれた出城を造り、鉄砲隊を用いた奇策で徳川軍を苦しめた。冬の陣は豊臣家と徳川家の和睦で終結したが、翌1615年、夏の陣が勃発。幸村は三度目の徳川軍との交戦で正攻法に転じ、鎧を赤で統一した真田軍を引き連れ、家康一人を追って徳川軍の本陣に殺到した。その勇猛果敢な戦いぶりに家康は色を失って戸惑ったという。だが、数で勝る徳川軍の前に、幸村はついに倒れた。 大坂冬の陣の篭城戦で真田幸村は大坂城の弱点である城の南方に真田丸と呼ばれた出城を造り、鉄砲隊を用いた奇策で徳川軍を苦しめた。冬の陣は豊臣家と徳川家の和睦で終結したが、翌1615年、夏の陣が勃発。幸村は三度目の徳川軍との交戦で正攻法に転じ、鎧を赤で統一した真田軍を引き連れ、家康一人を追って徳川軍の本陣に殺到した。その勇猛果敢な戦いぶりに家康は色を失って戸惑ったという。だが、数で勝る徳川軍の前に、幸村はついに倒れた。
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・真田幸村の本名 ・真田幸村の本名
「真田源治郎信繁」という。現存する幸村自筆の書状では、「幸村」と書いたものは一つも存在せず、すべて「信繁」となっているそうだ。それがなぜ「幸村」になったのか。後世の創作だといわれますが、明確な答えは不明。 「真田源治郎信繁」という。現存する幸村自筆の書状では、「幸村」と書いたものは一つも存在せず、すべて「信繁」となっているそうだ。それがなぜ「幸村」になったのか。後世の創作だといわれますが、明確な答えは不明。
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 六文銭は六道銭をあらわしているといわれます。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭のことで、三途の川の渡し賃だという。  六文銭は六道銭をあらわしているといわれます。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭のことで、三途の川の渡し賃だという。
 これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味する。  これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味する。
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・略年表 ・略年表
-永禄10年 (1567)幸村、父昌幸・母山之手殿の間に生まれる。 + 
 +永禄10年 (1567)幸村、父昌幸・母山之手殿の間に生まれる。
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  11年 (1568)9月/織田信長、足利義昭を奉じて入京。   11年 (1568)9月/織田信長、足利義昭を奉じて入京。
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天正3年 (1575) 5月/長篠の敗戦の後、真田昌幸家督を継ぐ。 天正3年 (1575) 5月/長篠の敗戦の後、真田昌幸家督を継ぐ。
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  10年 (1582) 3月/武田勝頼、自害し武田氏滅亡。   10年 (1582) 3月/武田勝頼、自害し武田氏滅亡。
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6月/織田信長、明智光秀に本能寺を襲われ自害。 6月/織田信長、明智光秀に本能寺を襲われ自害。
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  13年 (1585) 8月/幸村、上杉景勝の人質となるため春日山城へ。   13年 (1585) 8月/幸村、上杉景勝の人質となるため春日山城へ。
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  14年 (1586) 5月/幸村、豊臣秀吉の人質として大坂へ。   14年 (1586) 5月/幸村、豊臣秀吉の人質として大坂へ。
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  17年 (1589) 兄信之が家康に出仕。   17年 (1589) 兄信之が家康に出仕。
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  18年 (1590) 7月/幸村、小田原の役で初陣?   18年 (1590) 7月/幸村、小田原の役で初陣?
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文禄3年 (1594) 11月/幸村、従五位下左衛門佐に任ぜられ、豊臣姓を賜る。 文禄3年 (1594) 11月/幸村、従五位下左衛門佐に任ぜられ、豊臣姓を賜る。
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        この頃大谷吉継の娘と結婚。         この頃大谷吉継の娘と結婚。
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慶長5年 (1600) 6月/真田父子、上杉景勝討伐の徳川軍に従い東下。 慶長5年 (1600) 6月/真田父子、上杉景勝討伐の徳川軍に従い東下。
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7月/父昌幸と上田に帰城。兄信之はそのまま徳川軍に従う。 7月/父昌幸と上田に帰城。兄信之はそのまま徳川軍に従う。
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9月/関ヶ原の合戦。幸村は父昌幸と共に上田城にて徳川秀忠軍と戦う。 9月/関ヶ原の合戦。幸村は父昌幸と共に上田城にて徳川秀忠軍と戦う。
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12月/幸村・昌幸、紀州高野山九度山に蟄居。 12月/幸村・昌幸、紀州高野山九度山に蟄居。
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  16年 (1611) 6月/昌幸死去(67歳?)   16年 (1611) 6月/昌幸死去(67歳?)
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  19年 (1614) 10月/幸村、子の大助と共に大坂入城。   19年 (1614) 10月/幸村、子の大助と共に大坂入城。
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12月/真田丸の戦い 12月/真田丸の戦い
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  20年 (1615) 5月/幸村、家康の本陣に突入し戦死(48歳)。   20年 (1615) 5月/幸村、家康の本陣に突入し戦死(48歳)。
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・逸話 ・逸話
真田幸村の好物は焼酎 真田幸村の好物は焼酎
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これは、幸村が九度山に流されている時の話である。九度山の麓にいる家臣・河原左京に宛てた書状の中で次のように語っている。 これは、幸村が九度山に流されている時の話である。九度山の麓にいる家臣・河原左京に宛てた書状の中で次のように語っている。
「この壺に焼酎をおつめ下さるようにお願いいたします。今、お手持ちがなければ、この次でもよろしいですから、お頼み申します。むずかしいと思いますが、壺の口をよくしめて、その上壺の口を紙で目張りをして下さるようお願いいたします。御都合次第で取りに伺います。(中略) 「この壺に焼酎をおつめ下さるようにお願いいたします。今、お手持ちがなければ、この次でもよろしいですから、お頼み申します。むずかしいと思いますが、壺の口をよくしめて、その上壺の口を紙で目張りをして下さるようお願いいたします。御都合次第で取りに伺います。(中略)
どうか、壺二個の焼酎のこと、よろしくお願いします。この外にも余分にあったら、いただきたいと思います。 どうか、壺二個の焼酎のこと、よろしくお願いします。この外にも余分にあったら、いただきたいと思います。
六月廿三日 左京殿 真好白信繁(花押)」 六月廿三日 左京殿 真好白信繁(花押)」
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幸村がいかに焼酎好きであったかうかがえる逸話である。 幸村がいかに焼酎好きであったかうかがえる逸話である。

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真田幸村(さなだゆきむら)

安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年齢の49歳から逆算されたもので、月日は不明。

大坂冬の陣の篭城戦で真田幸村は大坂城の弱点である城の南方に真田丸と呼ばれた出城を造り、鉄砲隊を用いた奇策で徳川軍を苦しめた。冬の陣は豊臣家と徳川家の和睦で終結したが、翌1615年、夏の陣が勃発。幸村は三度目の徳川軍との交戦で正攻法に転じ、鎧を赤で統一した真田軍を引き連れ、家康一人を追って徳川軍の本陣に殺到した。その勇猛果敢な戦いぶりに家康は色を失って戸惑ったという。だが、数で勝る徳川軍の前に、幸村はついに倒れた。


・真田幸村の本名 「真田源治郎信繁」という。現存する幸村自筆の書状では、「幸村」と書いたものは一つも存在せず、すべて「信繁」となっているそうだ。それがなぜ「幸村」になったのか。後世の創作だといわれますが、明確な答えは不明。 ・旗印「六文銭」の意味  六文銭は六道銭をあらわしているといわれます。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭のことで、三途の川の渡し賃だという。  これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味する。


・略年表

永禄10年 (1567)幸村、父昌幸・母山之手殿の間に生まれる。

  11年 (1568)9月/織田信長、足利義昭を奉じて入京。

天正3年 (1575) 5月/長篠の敗戦の後、真田昌幸家督を継ぐ。

  10年 (1582) 3月/武田勝頼、自害し武田氏滅亡。

6月/織田信長、明智光秀に本能寺を襲われ自害。

  13年 (1585) 8月/幸村、上杉景勝の人質となるため春日山城へ。

  14年 (1586) 5月/幸村、豊臣秀吉の人質として大坂へ。

  17年 (1589) 兄信之が家康に出仕。

  18年 (1590) 7月/幸村、小田原の役で初陣?

文禄3年 (1594) 11月/幸村、従五位下左衛門佐に任ぜられ、豊臣姓を賜る。

        この頃大谷吉継の娘と結婚。

慶長5年 (1600) 6月/真田父子、上杉景勝討伐の徳川軍に従い東下。

7月/父昌幸と上田に帰城。兄信之はそのまま徳川軍に従う。

9月/関ヶ原の合戦。幸村は父昌幸と共に上田城にて徳川秀忠軍と戦う。

12月/幸村・昌幸、紀州高野山九度山に蟄居。

  16年 (1611) 6月/昌幸死去(67歳?)

  19年 (1614) 10月/幸村、子の大助と共に大坂入城。

12月/真田丸の戦い

  20年 (1615) 5月/幸村、家康の本陣に突入し戦死(48歳)。


・逸話 真田幸村の好物は焼酎

これは、幸村が九度山に流されている時の話である。九度山の麓にいる家臣・河原左京に宛てた書状の中で次のように語っている。 「この壺に焼酎をおつめ下さるようにお願いいたします。今、お手持ちがなければ、この次でもよろしいですから、お頼み申します。むずかしいと思いますが、壺の口をよくしめて、その上壺の口を紙で目張りをして下さるようお願いいたします。御都合次第で取りに伺います。(中略) どうか、壺二個の焼酎のこと、よろしくお願いします。この外にも余分にあったら、いただきたいと思います。 六月廿三日 左京殿 真好白信繁(花押)」

幸村がいかに焼酎好きであったかうかがえる逸話である。


参考・引用文献

http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/sanada03.htm

http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/yukimura2.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81


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