川越藩(かわごえはん)

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天正十八年に、酒井河内重忠が一万石をもって川越領主に封じられる。後に石高が増えて江戸時代後期には十七万石となる。歴代の藩主が譜代大名であり老中になるものも多く、川越は北武蔵野のおさえの城であったため川越の権威は高かった。


川越の領域は、時代によって変わるが川越を中心にした入間郡のほかにもとの高麗郡と比企郡の一部におよんでいた。江戸時代前期の寛永元年には入間郡50ヶ村、高麗郡17ヶ村、比企郡15ヶ村の合計82ヶ村で当時の石高は3万7500医師であった。後に開発地が加わってますます村は増えていった。


川越藩は、幕府とのかかわりが密接なものであり、戦国時代以来の川越は西武蔵への抑えであった。また岩槻、忍の二城とともに北武蔵への抑えの役割を持っていたために徳川幕府は親藩や譜代の大名を配置した。信綱以来の歴代の藩主が老中という幕府のかなめとなり、幕府の役職に就くことが多くなり江戸とのかかわりはよりいっそう深くなっていった。江戸と川越をつなぐ川越街道が整備され重要な役割を果たすようになった。一般庶民の江戸への往来や、荷物の輸送が新河岸舟運とともに重要な役割を果たし、今でも川越と東京をつなぐ川越街道は残っている。


参考文献              みて学ぶ埼玉の歴史     川越市制60周年記念誌


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