辮髪

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== '''概要''' == == '''概要''' ==
-古来より北方遊牧民族に多く見られる風習で、一般的に知られているものは''満州民族''の辮髪であり、頭頂部の髪を残して剃り上げ、長く伸ばした髪型のことをいう。発祥は騎馬を許された男性のみすることのできた髪型であり、特徴的なスタイルであるわけは、戦闘をしている際に前髪が垂れてくろことが邪魔であったので、前髪を剃り落としたことからとされている。部族ごとに様々な髪型の特徴がある。+ 古来より北方遊牧民族に多く見られる風習で、一般的に知られているものは''満州民族''の辮髪であり、頭頂部の髪を残して剃り上げ、長く伸ばした髪型のことをいう。発祥は騎馬を許された男性のみすることのできた髪型であり、特徴的なスタイルであるわけは、戦闘をしている際に前髪が垂れてくろことが邪魔であったので、前髪を剃り落としたことからとされている。部族ごとに様々な髪型の特徴がある。
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== '''歴史''' == == '''歴史''' ==
 1114年に''遼''より独立した''金''は、1125年、遼を滅ぼして、直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、及び江蘇・安徽二省の北部を勢力下に置く。1126~27年にかけて起こった''靖康の変''において''北宋''の都である''開封''をおとし、北宋を滅ぼした。  1114年に''遼''より独立した''金''は、1125年、遼を滅ぼして、直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、及び江蘇・安徽二省の北部を勢力下に置く。1126~27年にかけて起こった''靖康の変''において''北宋''の都である''開封''をおとし、北宋を滅ぼした。
-1129年、金の''太宗''は勢力内の漢人に対して、''胡服・辮髪の令''を下した。 
-1234年、''蒙古''が金を滅ぼし、1276年、''南宋''の首都''臨安''を陥落させて天下を統一する。このころの辮髪は、左右両耳の後ろに二つの辮髮を垂れたものあった。蒙古族は辮髮を強制しなかったが、蒙古の支配を受けた''朝鮮''・''ペルシア''などでも、一律に辮髮が流行した。特に、ペルシア地方ではキリスト教徒、イスラム教徒を問わず、多くの者が辮髮をしていたとされる。 
-1278年、朝鮮の''忠烈王''も朝鮮国内に辮髮の令を下した。 
-1645年、''清''が国を統治すると、''順治帝''により「''辮髪令''(または''薙髪令'')」が発布される。この条約の主な内容としては、+ 1129年、金の''太宗''は勢力内の漢人に対して、''胡服・辮髪の令''を下した。
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 + 1234年、''蒙古''が金を滅ぼし、1276年、''南宋''の首都''臨安''を陥落させて天下を統一する。このころの辮髪は、左右両耳の後ろに二つの辮髮を垂れたものあった。蒙古族は辮髮を強制しなかったが、蒙古の支配を受けた''朝鮮''・''ペルシア''などでも、一律に辮髮が流行した。特に、ペルシア地方ではキリスト教徒、イスラム教徒を問わず、多くの者が辮髮をしていたとされる。
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 + 1278年、朝鮮の''忠烈王''も朝鮮国内に辮髮の令を下した。
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 + 1645年、''清''が国を統治すると、''順治帝''により「''辮髪令''(または''薙髪令'')」が発布される。この条約の主な内容としては、
「この布告が出されてからは、京城(現在の北京)の内外は10日以内に、各省の地方は、布告書が届いてからまた10日以内に、全て薙髪して辮髪にさせよ。この布告に従う者は我が国の民であるが、疑ったりためらったりする者は、政府の命に逆らう賊徒と同じであるので、重刑に定める。」 「この布告が出されてからは、京城(現在の北京)の内外は10日以内に、各省の地方は、布告書が届いてからまた10日以内に、全て薙髪して辮髪にさせよ。この布告に従う者は我が国の民であるが、疑ったりためらったりする者は、政府の命に逆らう賊徒と同じであるので、重刑に定める。」
「もしまたこの布告に反対の章奏(臣僚から君主への上奉書)をみだりに上進し、朕がすでに定めた地方の人民をして、依然として明の制度(漢民族の長髪)を存続せしめ、清の制度に従おうとしない者があれば、死刑にさだめ赦してはならない。」といったものである。 「もしまたこの布告に反対の章奏(臣僚から君主への上奉書)をみだりに上進し、朕がすでに定めた地方の人民をして、依然として明の制度(漢民族の長髪)を存続せしめ、清の制度に従おうとしない者があれば、死刑にさだめ赦してはならない。」といったものである。
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清朝は辮髪をしない者に対して死刑をも厭わない厳しい姿勢を貫き、「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」(首を刎ねられたくなければ髪を剃れ)と言い、長髪あるいは髪を伸ばす者は反逆者とされた。 清朝は辮髪をしない者に対して死刑をも厭わない厳しい姿勢を貫き、「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」(首を刎ねられたくなければ髪を剃れ)と言い、長髪あるいは髪を伸ばす者は反逆者とされた。
だが、''儒教''を信仰する漢民族にとって、辮髪は屈辱的な風習であることに変わりなく(儒教では例え髪の毛一本であっても、親から貰った体を傷つける事を不孝としていた)、実際には辮髪にする事を拒み、首を刎ねられる者もいた。また、どうしても辮髪を受け入れられず、全て剃髪して仏門に入り僧侶への道を選んだ者もいたといわれる。 だが、''儒教''を信仰する漢民族にとって、辮髪は屈辱的な風習であることに変わりなく(儒教では例え髪の毛一本であっても、親から貰った体を傷つける事を不孝としていた)、実際には辮髪にする事を拒み、首を刎ねられる者もいた。また、どうしても辮髪を受け入れられず、全て剃髪して仏門に入り僧侶への道を選んだ者もいたといわれる。
-1911年、''辛亥革命''によって清が滅びるまでの約270年間、辮髪は風習として定着したが、''太平天国''では反清の立場をとることなどから、長髪にして弾圧されたとされている記録も残されている。 
 + 1911年、''辛亥革命''によって清が滅びるまでの約270年間、辮髪は風習として定着したが、''太平天国''では反清の立場をとることなどから、長髪にして弾圧されたとされている記録も残されている。
== '''参考文献''' == == '''参考文献''' ==
桑原隲藏 「支那人辮髮の歴史」 桑原隲藏 「支那人辮髮の歴史」
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吉田寅 「大清世祖皇帝実録」 吉田寅 「大清世祖皇帝実録」
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岡崎勝世他 「ユニバーサル新世界史資料」 帝国書院 岡崎勝世他 「ユニバーサル新世界史資料」 帝国書院
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概要

 古来より北方遊牧民族に多く見られる風習で、一般的に知られているものは満州民族の辮髪であり、頭頂部の髪を残して剃り上げ、長く伸ばした髪型のことをいう。発祥は騎馬を許された男性のみすることのできた髪型であり、特徴的なスタイルであるわけは、戦闘をしている際に前髪が垂れてくろことが邪魔であったので、前髪を剃り落としたことからとされている。部族ごとに様々な髪型の特徴がある。

歴史

 1114年により独立したは、1125年、遼を滅ぼして、直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、及び江蘇・安徽二省の北部を勢力下に置く。1126~27年にかけて起こった靖康の変において北宋の都である開封をおとし、北宋を滅ぼした。

 1129年、金の太宗は勢力内の漢人に対して、胡服・辮髪の令を下した。

 1234年、蒙古が金を滅ぼし、1276年、南宋の首都臨安を陥落させて天下を統一する。このころの辮髪は、左右両耳の後ろに二つの辮髮を垂れたものあった。蒙古族は辮髮を強制しなかったが、蒙古の支配を受けた朝鮮ペルシアなどでも、一律に辮髮が流行した。特に、ペルシア地方ではキリスト教徒、イスラム教徒を問わず、多くの者が辮髮をしていたとされる。

 1278年、朝鮮の忠烈王も朝鮮国内に辮髮の令を下した。

 1645年、が国を統治すると、順治帝により「辮髪令(または薙髪令)」が発布される。この条約の主な内容としては、 「この布告が出されてからは、京城(現在の北京)の内外は10日以内に、各省の地方は、布告書が届いてからまた10日以内に、全て薙髪して辮髪にさせよ。この布告に従う者は我が国の民であるが、疑ったりためらったりする者は、政府の命に逆らう賊徒と同じであるので、重刑に定める。」 「もしまたこの布告に反対の章奏(臣僚から君主への上奉書)をみだりに上進し、朕がすでに定めた地方の人民をして、依然として明の制度(漢民族の長髪)を存続せしめ、清の制度に従おうとしない者があれば、死刑にさだめ赦してはならない。」といったものである。 清朝が中国を征服するために、漢人に対して“服従の証”として満州族の衣服着用と辮髪を義務付ける条約であり、「留頭不留髪、留髪不留頭」の高札が各地に建てられた。 清朝は辮髪をしない者に対して死刑をも厭わない厳しい姿勢を貫き、「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」(首を刎ねられたくなければ髪を剃れ)と言い、長髪あるいは髪を伸ばす者は反逆者とされた。 だが、儒教を信仰する漢民族にとって、辮髪は屈辱的な風習であることに変わりなく(儒教では例え髪の毛一本であっても、親から貰った体を傷つける事を不孝としていた)、実際には辮髪にする事を拒み、首を刎ねられる者もいた。また、どうしても辮髪を受け入れられず、全て剃髪して仏門に入り僧侶への道を選んだ者もいたといわれる。

 1911年、辛亥革命によって清が滅びるまでの約270年間、辮髪は風習として定着したが、太平天国では反清の立場をとることなどから、長髪にして弾圧されたとされている記録も残されている。

参考文献

桑原隲藏 「支那人辮髮の歴史」

吉田寅 「大清世祖皇帝実録」

岡崎勝世他 「ユニバーサル新世界史資料」 帝国書院

D.N


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