万葉集

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== 万葉集 == == 万葉集 ==
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この成立をめぐる諸説にも関係するが、『万葉集』はなぜ天平宝字2年(758)正月元旦の歌で巻を閉じられているのか。家持が歌わぬ人となったのか、雄略天皇の春の歌からはじまったから新春で終わらせる必要があったのか、それ以前の事情か。諸税紛々として、いまだ謎のままである。 この成立をめぐる諸説にも関係するが、『万葉集』はなぜ天平宝字2年(758)正月元旦の歌で巻を閉じられているのか。家持が歌わぬ人となったのか、雄略天皇の春の歌からはじまったから新春で終わらせる必要があったのか、それ以前の事情か。諸税紛々として、いまだ謎のままである。
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 +== 歌風の展開 ==
 +万葉集の作品は一般に四期に分けられる。
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 +[第一期] 開花期(672年以前)。大化の改新を経て壬申の乱に至る、律令国家の激動期。記紀歌謡などの集団の歌から脱して、感動を率直に表現した個性的な創作歌が誕生する。作者は宮廷歌人が多く、代表歌人は天智天皇・有馬皇子(ありまのみこ)・額田王など。また額田王は個人的な心情を表現した叙情歌を残し、「万葉集」女流作家の第一人者となった。
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 +[第二期] 確立期(673~709年)。天武天皇を中心とする皇室の権威が強大になり、律令国家が整い、藤原京が造営された。この期を代表する歌人柿本人麻呂は、古代人の心を雄大な構想と荘重な格調の長歌に歌い上げ、万葉調を完成させた。他に志貴皇子・大津皇子・高市黒人(たけちのくろひと)など。
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 +[第三期] 最盛期(710~733年)。平城遷都後二十四年間。貴族文化が繁栄したが、律令制の矛盾が社会不安を増大させつつある。仏教・儒教文化、老荘思想、また漢詩文などの影響もあり、歌風も内省的・知性的・個性的になっていく。人生や社会の苦悩を詠んだ山上憶良、憂愁の心情をいだいて風流に遊んだ大伴旅人(たびと)、清澄な自然詠の山部赤人、伝説歌の高橋虫麻呂らがこの期の代表歌人である。
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 +[第四期] 衰退期(734~759年)。東大寺造営・大仏開眼(かいげん)など天平文化の爛熟期だが、律令制は行き詰まり、それを感じ取っている人々の心は憂いを帯びている。大伴家持の春秋三首に代表されるような感傷的で繊細優美な歌が詠まれるようになる。情熱的な恋歌をつくった狭野芽上娘子(さののちがみのおとめ)・笠郎女(かさのいらつめ)、万葉最大の女流歌人、大伴坂上郎女もこの期の歌人である。
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 +== 参考文献 ==
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 +『早わかり古代史』 松尾 光著 日本実業出版社 2002年8月10日発行
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 +『古語林古典文学事典』 大修館書店
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 +『日本史小辞典』 角川書店 竹内理三編

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万葉集

『万葉集』には、天皇から庶民にいたるまでの幅広い階層の歌が収められている。四五一六首というが、長歌の切り方などで二十ほど歌の数を多くみる説が有力である。人の死を悼む挽歌や恋人同士で贈りあった相聞歌と雑歌などに類別される。作品数は大伴家持が四七九首ともっとも多く、柿本人麻呂や山上憶良などがそれに次ぐ。

『万葉集』は家持が編集したというのが通説である。とはいえ一からすべてではなく、たとえば大伴坂上朗女などが集めていた「大伴家歌集」やすでにあった憶良の『類聚歌林』や『高橋連虫麻呂歌集』などを集成し、そこに家持自身の歌日誌を入れたり、兵部大輔のときに集めた防人歌などを加えて整えていったのだろう、という。

ところが問題もある。『古今和歌集』の序によれば9世紀初頭の平城天皇が関与していたかのようである。また『万葉集』の存在は、菅原道真が撰した『新撰万葉集』(893年成立)に先行する歌集として書きとめられるまで、史料的にまったく確認できない。それも書名だけで、巻数が二十巻であったかどうかも明瞭でない。

この成立をめぐる諸説にも関係するが、『万葉集』はなぜ天平宝字2年(758)正月元旦の歌で巻を閉じられているのか。家持が歌わぬ人となったのか、雄略天皇の春の歌からはじまったから新春で終わらせる必要があったのか、それ以前の事情か。諸税紛々として、いまだ謎のままである。


歌風の展開

万葉集の作品は一般に四期に分けられる。

[第一期] 開花期(672年以前)。大化の改新を経て壬申の乱に至る、律令国家の激動期。記紀歌謡などの集団の歌から脱して、感動を率直に表現した個性的な創作歌が誕生する。作者は宮廷歌人が多く、代表歌人は天智天皇・有馬皇子(ありまのみこ)・額田王など。また額田王は個人的な心情を表現した叙情歌を残し、「万葉集」女流作家の第一人者となった。

[第二期] 確立期(673~709年)。天武天皇を中心とする皇室の権威が強大になり、律令国家が整い、藤原京が造営された。この期を代表する歌人柿本人麻呂は、古代人の心を雄大な構想と荘重な格調の長歌に歌い上げ、万葉調を完成させた。他に志貴皇子・大津皇子・高市黒人(たけちのくろひと)など。

[第三期] 最盛期(710~733年)。平城遷都後二十四年間。貴族文化が繁栄したが、律令制の矛盾が社会不安を増大させつつある。仏教・儒教文化、老荘思想、また漢詩文などの影響もあり、歌風も内省的・知性的・個性的になっていく。人生や社会の苦悩を詠んだ山上憶良、憂愁の心情をいだいて風流に遊んだ大伴旅人(たびと)、清澄な自然詠の山部赤人、伝説歌の高橋虫麻呂らがこの期の代表歌人である。

[第四期] 衰退期(734~759年)。東大寺造営・大仏開眼(かいげん)など天平文化の爛熟期だが、律令制は行き詰まり、それを感じ取っている人々の心は憂いを帯びている。大伴家持の春秋三首に代表されるような感傷的で繊細優美な歌が詠まれるようになる。情熱的な恋歌をつくった狭野芽上娘子(さののちがみのおとめ)・笠郎女(かさのいらつめ)、万葉最大の女流歌人、大伴坂上郎女もこの期の歌人である。

参考文献

『早わかり古代史』 松尾 光著 日本実業出版社 2002年8月10日発行

『古語林古典文学事典』 大修館書店

『日本史小辞典』 角川書店 竹内理三編


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