パール判事
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- | == 唯一の無罪主張者 パール判事 == | + | == ラダ・ビノード・パール 略歴 == |
+ | インド ベンガル州に生まれる | ||
+ | 1911年 カルカッタ大学 理学部法学部を卒業 | ||
+ | 1924年には法学博士号(LLD)を取得 | ||
+ | 極東国際軍事裁判には、インド代表判事として派遣される | ||
- | ポツダム宣言受諾後の1946年4月29日に始まった'''極東国際軍事裁判'''(別名:東京裁判)は、戦争の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪(B級犯罪)に加えて、”平和に対する罪”(A級犯罪)で日本が起訴されたもの。判事は連合国(戦勝国)といったイギリス、アメリカによるものだったため、戦勝国が敗戦国を裁き一切の罪を負わせる”'''勝者の裁き'''”とも言われた。また当時この極東国際軍事裁判は、1.白人に歯向かった唯一の有色人種である日本への復讐 2.日本に罪意識を植えつけて、二度と再起できないようにすること が趣旨であったのではないかとも言われている。 | ||
- | 結果的には日本の有罪が確定し主要人物の死刑判決に終わったのだが、判事の中で唯一、日本の無罪を主張した者がいた。それが、'''ベンガル人(※インド人)ラダ・ビノード・パール 判事'''である。パールは'''、”裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である””戦争の勝敗は腕力の強弱の差であり、正義とは関係ない””平和に対する罪、人道に対する罪はニュンベルク裁判開催の際に決められたいわば事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”'''との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 | + | |
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+ | ポツダム宣言受諾後の1946年4月29日に東京裁判最高司令官マッカーサーによって開廷された'''極東国際軍事裁判'''(別名:東京裁判)は、戦争の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪(B級犯罪)に加えて、”平和に対する罪””人道に対する罪”(A級犯罪)で日本が起訴されたもの。 | ||
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しかし、この主張により”パールは個人的に親日だった”とか、”反白人思想であった”といった意見が飛び交ったとされるが本人は強く否定。現に、戦時中の残虐な行為などには、戦勝国・敗戦国共にわけ隔てない批判的見解を述べている。たとえば、原爆投下とホロスコートについては、”(米国の)原爆投下の決定した政策こそが唯一ホロスコートと比例する行為”とするなど、あくまで国際法の専門家として東京裁判を批判したとされる。 | しかし、この主張により”パールは個人的に親日だった”とか、”反白人思想であった”といった意見が飛び交ったとされるが本人は強く否定。現に、戦時中の残虐な行為などには、戦勝国・敗戦国共にわけ隔てない批判的見解を述べている。たとえば、原爆投下とホロスコートについては、”(米国の)原爆投下の決定した政策こそが唯一ホロスコートと比例する行為”とするなど、あくまで国際法の専門家として東京裁判を批判したとされる。 | ||
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- | '''ラダ・ビノード・パール''' | + | == 参考文献 == |
- | インド ベンガル州に生まれる | + | 中島岳志。西部蓮 「パール判決を問い直す”日本無罪論”の真相」 講談社現代新書 2008年 |
- | 1911年 カルカッタ大学 理学部法学部を卒業 | + | 軍事裁判/パール判事 http://www.asahi-net.or.jp/un3k-mn/0815-pal.html(2012.02.02閲覧) |
- | 1924年には法学博士号(LLD)を取得 | + | ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/ |
- | 極東国際軍事裁判には、インド代表判事として派遣される | + | |
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目次 |
ラダ・ビノード・パール 略歴
インド ベンガル州に生まれる 1911年 カルカッタ大学 理学部法学部を卒業 1924年には法学博士号(LLD)を取得 極東国際軍事裁判には、インド代表判事として派遣される
極東国際軍事裁判
ポツダム宣言受諾後の1946年4月29日に東京裁判最高司令官マッカーサーによって開廷された極東国際軍事裁判(別名:東京裁判)は、戦争の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪(B級犯罪)に加えて、”平和に対する罪””人道に対する罪”(A級犯罪)で日本が起訴されたもの。
極東国際軍事裁判の真意?
判事は連合国(戦勝国)といったイギリス、アメリカによるものだったため、戦勝国が敗戦国を裁き一切の罪を負わせる”勝者の裁き””戦勝国が敗戦国を裁くリンチ””戦勝国による報復劇”とも言われた。また1.白人に歯向かった唯一の有色人種である日本への復讐 2.日本に罪意識を植えつけて、二度と再起できないようにすること が趣旨であったのではないかとも言われている。
裁判の結果とパールの主張
結果的には日本の有罪が確定し東京裁判でA級戦犯として 東条英機 板垣征四郎 土肥原賢ニ 松井石根 木村兵太郎 武藤章 広田弘毅 この7人が絞死刑になった。A級戦犯とされた人々に対する罪状は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」 しかし、これに対し判事の中で唯一、日本の無罪を主張した者がいた。それが、ベンガル人(※インド人)ラダ・ビノード・パール 判事である。パールは、”裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である””戦争の勝敗は腕力の強弱の差であり、正義とは関係ない””平和に対する罪、人道に対する罪はニュンベルク裁判開催の際に決められたいわば事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。
湧き出る異論~パールは親日だったのか?~
しかし、この主張により”パールは個人的に親日だった”とか、”反白人思想であった”といった意見が飛び交ったとされるが本人は強く否定。現に、戦時中の残虐な行為などには、戦勝国・敗戦国共にわけ隔てない批判的見解を述べている。たとえば、原爆投下とホロスコートについては、”(米国の)原爆投下の決定した政策こそが唯一ホロスコートと比例する行為”とするなど、あくまで国際法の専門家として東京裁判を批判したとされる。
参考文献
中島岳志。西部蓮 「パール判決を問い直す”日本無罪論”の真相」 講談社現代新書 2008年 軍事裁判/パール判事 http://www.asahi-net.or.jp/un3k-mn/0815-pal.html(2012.02.02閲覧) ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/
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