アファーマティブ・アクションと裁判の判例

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-==アファーマティブ・アクションの概要==+==概要==
- 弱者集団(差別や不利益を被ってきた人々のことを指す)を、職業、教育上から差別を撤廃させる措置こと。雇用や教育などにおいて、それらの集団に属する人々を優先的・積極的に採用または選抜すること。大学入試や企業の入社試験時に一定の比率の特別優先枠を設け、その枠を黒人などマイノリティーの応募者に割り当てている。この制度はアメリカで広く採用されていて、これまで不合理な差別を受けてきたマイノリティーに対する社会的地位の向上などのための政策として見直されつつある。+ アファーマティブ・アクション(Affirmative action)とは、弱者集団(差別や不利益を被ってきた人々のことを指す)を、職業、教育上から差別を撤廃させる措置こと。雇用や教育などにおいて、それらの集団に属する人々を優先的・積極的に採用または選抜すること。大学入試や企業の入社試験時に一定の比率の特別優先枠を設け、その枠を黒人などマイノリティーの応募者に割り当てている。この制度はアメリカで広く採用されていて、これまで不合理な差別を受けてきたマイノリティーに対する社会的地位の向上などのための政策として見直されつつある。
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 代表的な特別措置の例として政府の調達契約の一定部分を少数集団や女性が所有する企業に発注したり、少数集団や女性の進出が著しく立ち後れている職種へ優先的に採用、昇格を行ったり、大学入学の際に人種を考慮したりするなどがある。  代表的な特別措置の例として政府の調達契約の一定部分を少数集団や女性が所有する企業に発注したり、少数集団や女性の進出が著しく立ち後れている職種へ優先的に採用、昇格を行ったり、大学入学の際に人種を考慮したりするなどがある。
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 + アメリカのアメリカのアファーマティブ・アクション政策は、1965年のジョンソン大統領によって始まったと考えるのが一般的である。
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 第一審ではマイノリティー枠を設けること自体が違憲であるという判決が出た(バッキー本人の入学については許可されなかった)。この事件はカリフォルニア州最高裁判所に上告された。  第一審ではマイノリティー枠を設けること自体が違憲であるという判決が出た(バッキー本人の入学については許可されなかった)。この事件はカリフォルニア州最高裁判所に上告された。
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 州最高裁での判決は、州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校の入試制度が憲法の規定する「平等保護条項」に反するとし、違憲となった。ここでバッキーの入学を許可するように判決を下したのである。  州最高裁での判決は、州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校の入試制度が憲法の規定する「平等保護条項」に反するとし、違憲となった。ここでバッキーの入学を許可するように判決を下したのである。
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-==参考文献==+==アファーマティブ・アクションの将来==
 + 上記の2つの判決のうち、一つは合憲、もう一つは違憲であった。しかし、人種を入学基準とする制度自体を違憲とするものではなかったため、アファーマティブ・アクションは存続することになったのである。
 + 過去にさかのぼると、1997年11月にカリフォルニア州で提案209号が成立した。州政府により、アファーマティブ・アクションが禁止されることになったのである。翌年の1998年12月にはワシントン州でも同様の提案が成立。さらに、2000年2月には、フロリダ州議会が大学の入試においてアファーマティブ・アクションを採用することを禁止する法律を制定した。これらの一連の動きを考えると、上記に述べた2つの最高裁判決は、こうしたアファーマティブ・アクション禁止の流れに歯止めをかけたことになる。
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 + ミシガン大学の法科大学院の裁判で、オコーナー判事は「人種によって選抜を決める入学制度は限定された期間のみに用いられるべきだ」としたうえで、「今後25年間で、このような人種優先策が不必要になると期待している」と述べた。
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 かれこれアメリカがアファーマティブ・アクションを導入してから40年以上が経つ。オコーナー判事は、25年間という具体的な数字を目標として立てた。25年間でこの問題を完全に終結させることができるのか、それとも永久にこの問題を解決することはできないのだろうか。この問いに関しては、アメリカのみならず国際的に捉えていくことが重要である。
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 +==参考文献==
 時事用語のABC weblio辞書  時事用語のABC weblio辞書
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 http://www.human.tsukuba.ac.jp/~tfujita/gakurui_seminar/kfujita/chapter.3.html  http://www.human.tsukuba.ac.jp/~tfujita/gakurui_seminar/kfujita/chapter.3.html
- http://fs1.law.keio.ac.jp/~kubo/seminar/kenkyu/sotsuron/sotsu13/19tohi.PDF (2003年)+ http://fs1.law.keio.ac.jp/~kubo/seminar/kenkyu/sotsuron/sotsu13/19tohi.PDF
 大阪市立大学大学院創造都市研究科教授 柏木宏 http://www.co-existing.com/essay/kh5.html  大阪市立大学大学院創造都市研究科教授 柏木宏 http://www.co-existing.com/essay/kh5.html
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目次

概要

 アファーマティブ・アクション(Affirmative action)とは、弱者集団(差別や不利益を被ってきた人々のことを指す)を、職業、教育上から差別を撤廃させる措置こと。雇用や教育などにおいて、それらの集団に属する人々を優先的・積極的に採用または選抜すること。大学入試や企業の入社試験時に一定の比率の特別優先枠を設け、その枠を黒人などマイノリティーの応募者に割り当てている。この制度はアメリカで広く採用されていて、これまで不合理な差別を受けてきたマイノリティーに対する社会的地位の向上などのための政策として見直されつつある。

 代表的な特別措置の例として政府の調達契約の一定部分を少数集団や女性が所有する企業に発注したり、少数集団や女性の進出が著しく立ち後れている職種へ優先的に採用、昇格を行ったり、大学入学の際に人種を考慮したりするなどがある。

 アメリカのアメリカのアファーマティブ・アクション政策は、1965年のジョンソン大統領によって始まったと考えるのが一般的である。


アファーマティブ・アクションをめぐる判決

 アメリカではアファーマディブ・アクションを”逆差別”であるとして、連邦最高裁判所において数々の判決がなされた。例を挙げるとBakke判決(1978年)、Webber判決(1979年)、Fullilove判決(198年)、Wygant判決(1986年)、Firefighters判決(1986年)、Steel Metal Works判決(1986年)、Johnson(1987年)、Grutter判決・ Gratz判決(2003年)などである。Johnson判決以外はアファーマティブ・アクションによる人種差別の解消についてが争点とされている。特に注目したいのが、Bakke判決とWygant判決の2つでは連邦最高裁判所がアファーマティブ・アクションを否定しているという事実である。特にBakke判決は連邦最高裁判所がアファーマティブ・アクションに対し違憲判決を下した初めての事件である。


バッキー判決

 州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校は当時、100人の定員のうち16人を特別枠として設け、マイノリティーの志願者から通常の試験での選抜方法とは異なる方法によって入学を許可するという割当制を行っていた。白人であるアラン・バッキーは1973年と1974年の2回にわたって同大学の医学校に志願した。かれは白人であることから通常の入学試験を受験した。結果的にはその2回とも不合格とされた。だが、バッキーと同じ年に試験を受けたマイノリティーの学生は彼よりも点数が低かったにも関わらず合格となっていた。これを不服と感じたバッキーは州裁判所に訴えたのだった。

 第一審ではマイノリティー枠を設けること自体が違憲であるという判決が出た(バッキー本人の入学については許可されなかった)。この事件はカリフォルニア州最高裁判所に上告された。

 州最高裁での判決は、州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校の入試制度が憲法の規定する「平等保護条項」に反するとし、違憲となった。ここでバッキーの入学を許可するように判決を下したのである。

 結果的に1978年に連邦最高裁判所でも争われ、「この制度は教育において必要不可欠な多様性のある学習環境を確保するために必ずしも必要であるとは言えない」という判決のもと、これもまた憲法の「平等保護条項」に反するとしてデイヴィス校のマイノリティー優遇制度を違憲とみなした。


ミシガン大学の裁判

 ミシガン大学・大学院では入学者選抜の際にマイノリティーの志願者を優遇する措置をとっている。白人学生のグラッターはミシガン大学法科大学院に不合格となったが、自身よりも点数の低いマイノリティーの学生が合格となっていたことに不服を感じ、これは合衆国憲法の定める「教育の機会均等」に反するとして訴えた。同様の理由により不合格とされた白人のグラッツとハマシャーもまた、ミシガン大学のこの制度を不服としていた。1997年、この2つのグループが別々に大学を相手に提訴した。

 グラッター裁判では様々な見解や覆りを経て、ミシガン大学での人権を考慮した入試制度は必要に応じた制度であるとされ、合憲であるとの判決が下された。この後、グラッターはこの判決を不服とし最高裁判所で争うことになる。

 一方グラッツ裁判では、ミシガン州の連邦地方裁判所にてパトリック・ドゥーガン裁判官は「大学での多様性は政府からも注目されており、この入学試験制度はバッキー判決で最高裁判所が出した判断によって定められた基準から外れていないと考える。しかしミシガン大学の1995年から1998年の入学試験制度は違憲であるだろう」とし、違憲判決を下す。ここでも控訴裁判所に上訴することが決まった。

 2003年6月、ついに両裁判の判決が下されることになる。連邦最高裁判所はグラッター裁判について「高等教育の場では多様性が重要視され、その説得力もある。その考えから大学内での人種の多様性は教育に有益な効果をもたらす」とし、ミシガン大学の入学制度において人種を判断基準の一つとすることは可能であるとした。グラッツ裁判に関しては、ミシガン大学の主張には説得力があり、多様性のある人種は教育に有益な効果をもたらすとしながらも、ミシガン大学の行っていた「マイノリティー志願者に対してのみ点数を自動加算」する制度は必要性に応じていないという判決を下したのであった。


アファーマティブ・アクションの将来

 上記の2つの判決のうち、一つは合憲、もう一つは違憲であった。しかし、人種を入学基準とする制度自体を違憲とするものではなかったため、アファーマティブ・アクションは存続することになったのである。

 過去にさかのぼると、1997年11月にカリフォルニア州で提案209号が成立した。州政府により、アファーマティブ・アクションが禁止されることになったのである。翌年の1998年12月にはワシントン州でも同様の提案が成立。さらに、2000年2月には、フロリダ州議会が大学の入試においてアファーマティブ・アクションを採用することを禁止する法律を制定した。これらの一連の動きを考えると、上記に述べた2つの最高裁判決は、こうしたアファーマティブ・アクション禁止の流れに歯止めをかけたことになる。

 ミシガン大学の法科大学院の裁判で、オコーナー判事は「人種によって選抜を決める入学制度は限定された期間のみに用いられるべきだ」としたうえで、「今後25年間で、このような人種優先策が不必要になると期待している」と述べた。 
 かれこれアメリカがアファーマティブ・アクションを導入してから40年以上が経つ。オコーナー判事は、25年間という具体的な数字を目標として立てた。25年間でこの問題を完全に終結させることができるのか、それとも永久にこの問題を解決することはできないのだろうか。この問いに関しては、アメリカのみならず国際的に捉えていくことが重要である。


参考文献

 時事用語のABC weblio辞書

 Yahoo! 百科事典

 http://www.human.tsukuba.ac.jp/~tfujita/gakurui_seminar/kfujita/chapter.3.html

 http://fs1.law.keio.ac.jp/~kubo/seminar/kenkyu/sotsuron/sotsu13/19tohi.PDF

 大阪市立大学大学院創造都市研究科教授 柏木宏 http://www.co-existing.com/essay/kh5.html


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