蒙古襲来

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2012年2月3日 (金) 15:22の版
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== 概要 == == 概要 ==
「蒙古襲来(元寇)」とは日本の鎌倉時代に、当時の中国「元」の大軍が文永11年(1274)弘安4年(1281)の二度にわたり北九州沿岸に来襲したことを言う。文永の役は、約3万7千人の兵に約900隻の軍艦により、10月5日対馬到着後一週間で略奪、15日にわずか1日で壱岐も全滅にした。16日には平戸、唐津を襲い、その後19日に博多湾に到着。元軍は全体が動く集団戦法で戦いました。また日本の弓の射程距離が100メートルたらずなのに対して、元軍の弓は200メートルの射程距離がありました。しかもこの矢には毒が塗ってあったとされている。さらに鉄砲という手榴弾も使い攻撃をした。日本の戦法は、一人で突っ込んでいく、個人で戦う戦法であった。これは当時の武士が名乗りを上げて一騎ずつ戦うというものがあったからである。この元との戦いでも、竹崎季長は名乗りを上げてから敵陣に突っ込んだのでしょう。これは先懸といって、真っ先に敵陣に入っていた者の手柄が第一だった。日本は国内での戦経験しかないため、日本の戦法は元の集団戦法には歯が立たず苦戦した。元軍は短刀と刀、長槍、服装は身軽なよろい、対する日本軍は長弓と日本刀に服装は重いよろいと、武器や防具の点でも違いがあった。日本軍は後退し、大宰府の守りを固める。そして翌朝の報告によると900艘の敵船は博多湾から消えていた。 「蒙古襲来(元寇)」とは日本の鎌倉時代に、当時の中国「元」の大軍が文永11年(1274)弘安4年(1281)の二度にわたり北九州沿岸に来襲したことを言う。文永の役は、約3万7千人の兵に約900隻の軍艦により、10月5日対馬到着後一週間で略奪、15日にわずか1日で壱岐も全滅にした。16日には平戸、唐津を襲い、その後19日に博多湾に到着。元軍は全体が動く集団戦法で戦いました。また日本の弓の射程距離が100メートルたらずなのに対して、元軍の弓は200メートルの射程距離がありました。しかもこの矢には毒が塗ってあったとされている。さらに鉄砲という手榴弾も使い攻撃をした。日本の戦法は、一人で突っ込んでいく、個人で戦う戦法であった。これは当時の武士が名乗りを上げて一騎ずつ戦うというものがあったからである。この元との戦いでも、竹崎季長は名乗りを上げてから敵陣に突っ込んだのでしょう。これは先懸といって、真っ先に敵陣に入っていた者の手柄が第一だった。日本は国内での戦経験しかないため、日本の戦法は元の集団戦法には歯が立たず苦戦した。元軍は短刀と刀、長槍、服装は身軽なよろい、対する日本軍は長弓と日本刀に服装は重いよろいと、武器や防具の点でも違いがあった。日本軍は後退し、大宰府の守りを固める。そして翌朝の報告によると900艘の敵船は博多湾から消えていた。
 弘安の役は、約12万5000人の兵に約4400隻の軍隊で出港。幕府は「異国警固番役」を強化し、博多湾沿岸に高さ2メートル延長20㎞の石築地を半年で作り守りを強化した。5月3日、出港後悪天により艦隊がばらばらになるが、その後21日に対馬、22日に壱岐へ。12万3千560石という大量の食糧を準備し、さらには壱岐では畑を作ったため、長期戦を予想していたと考えられる。7月1日に江南軍と東路軍合流が、台風により生存者四千ほどとなり、生き残った元軍も日本軍に首をはねられ、二度の遠征も失敗に終わった。  弘安の役は、約12万5000人の兵に約4400隻の軍隊で出港。幕府は「異国警固番役」を強化し、博多湾沿岸に高さ2メートル延長20㎞の石築地を半年で作り守りを強化した。5月3日、出港後悪天により艦隊がばらばらになるが、その後21日に対馬、22日に壱岐へ。12万3千560石という大量の食糧を準備し、さらには壱岐では畑を作ったため、長期戦を予想していたと考えられる。7月1日に江南軍と東路軍合流が、台風により生存者四千ほどとなり、生き残った元軍も日本軍に首をはねられ、二度の遠征も失敗に終わった。
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 文永五年(1268)に元が高麗に命令し、日本の大宰府に使者と国書を送った。国書には、「朕おもうに古より小国の君、境土相接すれば、なお努めて信を講じ(目陸)を修む」と書かれており、意味は「高麗も元の領土となったため、日本も和好を通じる使節を出すべきだ」というものであった。この文から、高麗と日本は同等な関係のため、日本も攻撃される前に降伏し、元の領土となるようにと元が言っているとも考えられる。その後7ヶ月も高麗は返事を待ったが来なかった。元はこれに怒り、高麗に日本へ攻めるための船などをすぐに作るよう命じたが、高麗は日本への航路は困難で、多くの船を作るのも難しい状況にあると反発いた。しかし元は、「高麗は一心に軍隊を作れ。日本への航路が困難というのは誤りで、追い風ならばわずか三日で着く距離であるから、なんの心配もいらない」と言った。実はこの約50年前、元は高麗に国書を送り、使者が返書と貢物を受け取って帰る途中何者かに殺された。以来数十年、高麗は6次に元軍の侵攻を受け遂に屈服、講和を結んで「元」に臣従した。そのため高麗は国として存在しているものの、ほとんど元の植民地という扱いとなっている。領土をさらに広げて力を付けたい、しかし国書を送ったにも関わらず何も返って来ない、さらには高麗にも反発が来るため鎮めたい、これが日本を攻めた一番の原因であると言える。文永の役までに使者は5回も来ている。最初日本では、朝廷が返書を送らないと決めたが、その後は返書だけは出す方針をとり、通行拒否の旨の返書を作成した。外交儀礼からも当然のことだが、幕府はそれを追い返した。文永の役後の建治元年(1275)に再度使者が送られた。内容は降伏勧告であったが、日本側はこれに反発し、高麗人を斬首し、その首を晒した。幕府は高麗進行を計画したが、防衛に重点を置いた。この行動は、朝廷に従い、中国に妥協的な態度を取ることで、幕府の得宗の専制を強化するのに障害になるからと幕府が考えたからである。朝廷の意見を無視し、政治的な取り決めを進めていったために朝廷が伝統的に握っていた外交権を奪ったが、このような横暴な態度や行動が元の2度の襲来を生んだと考えられる。  文永五年(1268)に元が高麗に命令し、日本の大宰府に使者と国書を送った。国書には、「朕おもうに古より小国の君、境土相接すれば、なお努めて信を講じ(目陸)を修む」と書かれており、意味は「高麗も元の領土となったため、日本も和好を通じる使節を出すべきだ」というものであった。この文から、高麗と日本は同等な関係のため、日本も攻撃される前に降伏し、元の領土となるようにと元が言っているとも考えられる。その後7ヶ月も高麗は返事を待ったが来なかった。元はこれに怒り、高麗に日本へ攻めるための船などをすぐに作るよう命じたが、高麗は日本への航路は困難で、多くの船を作るのも難しい状況にあると反発いた。しかし元は、「高麗は一心に軍隊を作れ。日本への航路が困難というのは誤りで、追い風ならばわずか三日で着く距離であるから、なんの心配もいらない」と言った。実はこの約50年前、元は高麗に国書を送り、使者が返書と貢物を受け取って帰る途中何者かに殺された。以来数十年、高麗は6次に元軍の侵攻を受け遂に屈服、講和を結んで「元」に臣従した。そのため高麗は国として存在しているものの、ほとんど元の植民地という扱いとなっている。領土をさらに広げて力を付けたい、しかし国書を送ったにも関わらず何も返って来ない、さらには高麗にも反発が来るため鎮めたい、これが日本を攻めた一番の原因であると言える。文永の役までに使者は5回も来ている。最初日本では、朝廷が返書を送らないと決めたが、その後は返書だけは出す方針をとり、通行拒否の旨の返書を作成した。外交儀礼からも当然のことだが、幕府はそれを追い返した。文永の役後の建治元年(1275)に再度使者が送られた。内容は降伏勧告であったが、日本側はこれに反発し、高麗人を斬首し、その首を晒した。幕府は高麗進行を計画したが、防衛に重点を置いた。この行動は、朝廷に従い、中国に妥協的な態度を取ることで、幕府の得宗の専制を強化するのに障害になるからと幕府が考えたからである。朝廷の意見を無視し、政治的な取り決めを進めていったために朝廷が伝統的に握っていた外交権を奪ったが、このような横暴な態度や行動が元の2度の襲来を生んだと考えられる。
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=== 南宋を孤立させるための側面作戦 === === 南宋を孤立させるための側面作戦 ===
また、元は朝鮮、インドシナへと軍事行動を起こし、南宋を孤立させる作戦のため、日本にも手を伸ばしてきたと考えられる。西アジアへと領土を広げ、貿易ルートを確保していったが、東の海側の貿易ルートへと進出を考えていた。そのためにも海に面する朝鮮、南宋へと拡大する必要があった。その作戦のための標的として日本も加わり、東シナ海においての権力を握りたかったのだと思われる。 また、元は朝鮮、インドシナへと軍事行動を起こし、南宋を孤立させる作戦のため、日本にも手を伸ばしてきたと考えられる。西アジアへと領土を広げ、貿易ルートを確保していったが、東の海側の貿易ルートへと進出を考えていた。そのためにも海に面する朝鮮、南宋へと拡大する必要があった。その作戦のための標的として日本も加わり、東シナ海においての権力を握りたかったのだと思われる。
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== 元にマルコ・ポーロは影響があったのか? == == 元にマルコ・ポーロは影響があったのか? ==
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日本に注目がいったとされる、マルコ・ポーロの「東方見聞録」。内容的には、マルコポーロが旅立つまでの経緯を書いた短い序文に、中国への移動をしながら書いた中東の年代記、その他の産物、住民、信仰について描写している。マルコ・ポーロは中央アジアを経て1275年に元の大都(現在の北京)に着いた。フビライ・ハーンは礼を尽くして彼らを迎えた。マルコ・ポーロを特に気に入り、彼を汗の外交官として召し抱えた。約17年間勤めたという。その後苦しかった旅や中国での調査などを基に東方見聞録を完成させた。そしてその東方見聞録の注目するところは、3冊目のジパングについてである。このジパングが日本とされている。しかしこのジパングのことについて、内容がとても日本とは思えない。「千五百マイルは約二千四百キロメートルである。」、対馬海峡へは200キロメートル、中国の杭州を起点にしても日本までは1000キロメートルであるため、距離的に日本とは合わない。またジパングはこう紹介されている。「東のかた、大陸から1500マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。 この国ではいたるところに黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。」、「この国王の宮殿は黄金で出来ている。屋根はすべて純金でふかれている。床も、全部が指二本幅の厚さをもつ純金で敷きつめられている。」、このように金についてとても書かれているのは、日宋貿易の輸出品が金・刀剣・硫黄・扇・屏風・蒔絵などであったため、その記録から多くの金が取れ、周りに与えるほどにあるのだと考えたと思われる。金への関心は、当時すごいものであり、大航海時代は黄金の島を探すための時代であったとされる。あのコロンブスも、黄金の島を探している中でアメリカ大陸を発見したというのである。日本はその時代までは中国や朝鮮としか貿易を行っておらず、世界的に未知数な国であったであろう。中国の記録から金が取れることを知り、今まで探していた黄金の島は日本、ジパングではないだろくかと考えた結果、東方見聞録に書かれたのではないだろうか。また東方見聞録にはこのようにも書かれている。「またこの国には多量の真珠が産する。」、「この島に生えている木々は、いずれも強い芳香を放ちすこぶる貴重な香木であって、たとえば沈香その他に比べても決して劣らぬ高価なものである。黒胡椒はもとより、雪のような白胡椒も豊富なのである。黄金を初めとする様々な奇貨異物の産額も、これまた驚くばかりの巨額である。」、「チパング諸島が散在している海面を(チン海)と称するが、これはチパングの言語でチンとはマンジのことだから、マンジに面した海という意味である。この海を航行しなれて事情によく通じた老練な水夫や水先案内人の話では、この海域には7448の島々があって、その大部分に人が住まっているとのことである。」、このことから7448もの島々は多すぎる。なぜここまでジパングと日本に違いがあるかというと、マルコ・ポーロは日本には一度も来ていないのである。「ジパングは一年に一度しか往復できない遠い島国」と書かれており、とても遠いため行けない国だと考えられていた。そしてなぜジパングの位置が曖昧かというと、世界地図の骨格が出来上がったころにマルコ・ポーロが登場したのである。1375年にバルセロナで作られたカタロニア地図で、中国の東にはセイロン島はあるだけでジパングはまだ表れていない。1492年にマルチン・ベハイムの地球儀がジパングを最初に表したと思われる。この地図でもジパングとアメリカ大陸はとても近いように表されているため、距離が正確でないことがわかる。また蒙古襲来についても書かれている。「めざすこの島国に到着、上陸して多くの平野や村落を占領しはしたものの、まだ都市は一つも攻略できないでいるうちに、以下に述べるような災難が遠征軍にふりかかって来た。」と、この部分では日本と同じように災難が来たと書かれている。 日本に注目がいったとされる、マルコ・ポーロの「東方見聞録」。内容的には、マルコポーロが旅立つまでの経緯を書いた短い序文に、中国への移動をしながら書いた中東の年代記、その他の産物、住民、信仰について描写している。マルコ・ポーロは中央アジアを経て1275年に元の大都(現在の北京)に着いた。フビライ・ハーンは礼を尽くして彼らを迎えた。マルコ・ポーロを特に気に入り、彼を汗の外交官として召し抱えた。約17年間勤めたという。その後苦しかった旅や中国での調査などを基に東方見聞録を完成させた。そしてその東方見聞録の注目するところは、3冊目のジパングについてである。このジパングが日本とされている。しかしこのジパングのことについて、内容がとても日本とは思えない。「千五百マイルは約二千四百キロメートルである。」、対馬海峡へは200キロメートル、中国の杭州を起点にしても日本までは1000キロメートルであるため、距離的に日本とは合わない。またジパングはこう紹介されている。「東のかた、大陸から1500マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。 この国ではいたるところに黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。」、「この国王の宮殿は黄金で出来ている。屋根はすべて純金でふかれている。床も、全部が指二本幅の厚さをもつ純金で敷きつめられている。」、このように金についてとても書かれているのは、日宋貿易の輸出品が金・刀剣・硫黄・扇・屏風・蒔絵などであったため、その記録から多くの金が取れ、周りに与えるほどにあるのだと考えたと思われる。金への関心は、当時すごいものであり、大航海時代は黄金の島を探すための時代であったとされる。あのコロンブスも、黄金の島を探している中でアメリカ大陸を発見したというのである。日本はその時代までは中国や朝鮮としか貿易を行っておらず、世界的に未知数な国であったであろう。中国の記録から金が取れることを知り、今まで探していた黄金の島は日本、ジパングではないだろくかと考えた結果、東方見聞録に書かれたのではないだろうか。また東方見聞録にはこのようにも書かれている。「またこの国には多量の真珠が産する。」、「この島に生えている木々は、いずれも強い芳香を放ちすこぶる貴重な香木であって、たとえば沈香その他に比べても決して劣らぬ高価なものである。黒胡椒はもとより、雪のような白胡椒も豊富なのである。黄金を初めとする様々な奇貨異物の産額も、これまた驚くばかりの巨額である。」、「チパング諸島が散在している海面を(チン海)と称するが、これはチパングの言語でチンとはマンジのことだから、マンジに面した海という意味である。この海を航行しなれて事情によく通じた老練な水夫や水先案内人の話では、この海域には7448の島々があって、その大部分に人が住まっているとのことである。」、このことから7448もの島々は多すぎる。なぜここまでジパングと日本に違いがあるかというと、マルコ・ポーロは日本には一度も来ていないのである。「ジパングは一年に一度しか往復できない遠い島国」と書かれており、とても遠いため行けない国だと考えられていた。そしてなぜジパングの位置が曖昧かというと、世界地図の骨格が出来上がったころにマルコ・ポーロが登場したのである。1375年にバルセロナで作られたカタロニア地図で、中国の東にはセイロン島はあるだけでジパングはまだ表れていない。1492年にマルチン・ベハイムの地球儀がジパングを最初に表したと思われる。この地図でもジパングとアメリカ大陸はとても近いように表されているため、距離が正確でないことがわかる。また蒙古襲来についても書かれている。「めざすこの島国に到着、上陸して多くの平野や村落を占領しはしたものの、まだ都市は一つも攻略できないでいるうちに、以下に述べるような災難が遠征軍にふりかかって来た。」と、この部分では日本と同じように災難が来たと書かれている。
以上のように東方見聞録のジパングと日本は個々に見ていくと違いが多く見られる。東方見聞録では、ジパングは一年に一度しか往復できない遠い島国、日本での災害後に孤島に生き残った兵士で船を奪い、首都を占拠したが7ヶ月で降伏となっているが、日本の歴史では元軍は数日で日本に到着、元軍は首都を占拠できず、生き残った兵士も殺害されたため、異なる点が多い。一度も行っていない、日本とは異なる点が多く、日本についての情報も中国の方が知っている点から、このような書物を読んでも攻め込んで領土を広げることにつながるとは思えない。今のように船も丈夫ではなく、災害によって航海中に命を落とすことが多かった時代である。曖昧な地理ではより不安である。以上のことから、マルコ・ポーロの東方見聞録の影響はほとんどなかったと言える。なぜ元寇に、東方見聞録が影響したと考えられたのかは、マルコ・ポーロとフビライ・ハンの交流があったこと、日本には金が多くあるといったところにあると思われる。 以上のように東方見聞録のジパングと日本は個々に見ていくと違いが多く見られる。東方見聞録では、ジパングは一年に一度しか往復できない遠い島国、日本での災害後に孤島に生き残った兵士で船を奪い、首都を占拠したが7ヶ月で降伏となっているが、日本の歴史では元軍は数日で日本に到着、元軍は首都を占拠できず、生き残った兵士も殺害されたため、異なる点が多い。一度も行っていない、日本とは異なる点が多く、日本についての情報も中国の方が知っている点から、このような書物を読んでも攻め込んで領土を広げることにつながるとは思えない。今のように船も丈夫ではなく、災害によって航海中に命を落とすことが多かった時代である。曖昧な地理ではより不安である。以上のことから、マルコ・ポーロの東方見聞録の影響はほとんどなかったと言える。なぜ元寇に、東方見聞録が影響したと考えられたのかは、マルコ・ポーロとフビライ・ハンの交流があったこと、日本には金が多くあるといったところにあると思われる。
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== 用語 == == 用語 ==
-=== 異国警固番役 ===+ 
 +異国警固番役
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蒙古襲来に備えて西国海岸を交替で勤番した警固役。九州地方の御家人に課せられ、文永の役の前から設置されていたが、文永の役後、大幅に整備された。 蒙古襲来に備えて西国海岸を交替で勤番した警固役。九州地方の御家人に課せられ、文永の役の前から設置されていたが、文永の役後、大幅に整備された。
-=== 防塁 ===+防塁
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元々は石築地と呼ばれていた。元の上陸を防ぐために築かれたもので、長さは20キロにもなるという定説もある。構築には御家人だけでなく、九州地方の所領所有者たちにも割り当てられた。 元々は石築地と呼ばれていた。元の上陸を防ぐために築かれたもので、長さは20キロにもなるという定説もある。構築には御家人だけでなく、九州地方の所領所有者たちにも割り当てられた。
-=== 北条時宗 ===+北条時宗
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1251年(建長3年)に執権北条時頼とその正室重時の娘との間に産まれた。 1251年(建長3年)に執権北条時頼とその正室重時の娘との間に産まれた。
鎌倉幕府8代執権。1264年連署、翌年相模守、68年に18歳で執権となる。積極的な対外強硬策を取り、国内政治では得宗政治への動きを見せた。 鎌倉幕府8代執権。1264年連署、翌年相模守、68年に18歳で執権となる。積極的な対外強硬策を取り、国内政治では得宗政治への動きを見せた。
-=== マルコ・ポーロ ===+マルコ・ポーロ
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(1254年9月15日 - 1324年1月8日)イタリア人で、1271年に東方へ出発し、中央アジアを経て元に入る。中国各地を旅行し、見聞を広め、「東方見聞録」を記した。 (1254年9月15日 - 1324年1月8日)イタリア人で、1271年に東方へ出発し、中央アジアを経て元に入る。中国各地を旅行し、見聞を広め、「東方見聞録」を記した。
-=== フビライ・ハン ===+フビライ・ハン
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(1215年9月23日 - 1294年2月18日)モンゴル帝国5代、元の初代皇帝。チンギスの孫。1271年大都(北京)に遷都し、国号を元と称した。高麗を属国、南宋を滅ぼす、アンナン・ジャワへと進出をした。 (1215年9月23日 - 1294年2月18日)モンゴル帝国5代、元の初代皇帝。チンギスの孫。1271年大都(北京)に遷都し、国号を元と称した。高麗を属国、南宋を滅ぼす、アンナン・ジャワへと進出をした。
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== 参考・引用文献 == == 参考・引用文献 ==
-=== 多賀一史 「黄金伝説ジパングの謎」===+・多賀一史 「黄金伝説ジパングの謎」
-=== ドーソン 佐口透訳 「モンゴル帝国史」 平凡社 ===+ 
-=== 上横手雅敬 「鎌倉時代―その光と影―」 吉川弘文館 ===+・ドーソン 佐口透訳 「モンゴル帝国史」 平凡社
-=== 村井章介 「北条時宗と蒙古襲来」 日本放送出版協会 ===+ 
-=== 佐伯弘次 「モンゴル襲来の衝撃」 中央公論新社 ===+・上横手雅敬 「鎌倉時代―その光と影―」 吉川弘文館
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 +・村井章介 「北条時宗と蒙古襲来」 日本放送出版協会
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 +・佐伯弘次 「モンゴル襲来の衝撃」 中央公論新社
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 +・石井・五味・笹山ら 「詳細日本史 改訂版 2007年」 山川出版社
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-=== 石井・五味・笹山ら 「詳細日本史 改訂版 2007年」 山川出版社 ===''+pal

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概要 

「蒙古襲来(元寇)」とは日本の鎌倉時代に、当時の中国「元」の大軍が文永11年(1274)弘安4年(1281)の二度にわたり北九州沿岸に来襲したことを言う。文永の役は、約3万7千人の兵に約900隻の軍艦により、10月5日対馬到着後一週間で略奪、15日にわずか1日で壱岐も全滅にした。16日には平戸、唐津を襲い、その後19日に博多湾に到着。元軍は全体が動く集団戦法で戦いました。また日本の弓の射程距離が100メートルたらずなのに対して、元軍の弓は200メートルの射程距離がありました。しかもこの矢には毒が塗ってあったとされている。さらに鉄砲という手榴弾も使い攻撃をした。日本の戦法は、一人で突っ込んでいく、個人で戦う戦法であった。これは当時の武士が名乗りを上げて一騎ずつ戦うというものがあったからである。この元との戦いでも、竹崎季長は名乗りを上げてから敵陣に突っ込んだのでしょう。これは先懸といって、真っ先に敵陣に入っていた者の手柄が第一だった。日本は国内での戦経験しかないため、日本の戦法は元の集団戦法には歯が立たず苦戦した。元軍は短刀と刀、長槍、服装は身軽なよろい、対する日本軍は長弓と日本刀に服装は重いよろいと、武器や防具の点でも違いがあった。日本軍は後退し、大宰府の守りを固める。そして翌朝の報告によると900艘の敵船は博多湾から消えていた。  弘安の役は、約12万5000人の兵に約4400隻の軍隊で出港。幕府は「異国警固番役」を強化し、博多湾沿岸に高さ2メートル延長20㎞の石築地を半年で作り守りを強化した。5月3日、出港後悪天により艦隊がばらばらになるが、その後21日に対馬、22日に壱岐へ。12万3千560石という大量の食糧を準備し、さらには壱岐では畑を作ったため、長期戦を予想していたと考えられる。7月1日に江南軍と東路軍合流が、台風により生存者四千ほどとなり、生き残った元軍も日本軍に首をはねられ、二度の遠征も失敗に終わった。



なぜ元は日本を狙ったのか 

時宗が元の国書を拒否、使者を殺害

 文永五年(1268)に元が高麗に命令し、日本の大宰府に使者と国書を送った。国書には、「朕おもうに古より小国の君、境土相接すれば、なお努めて信を講じ(目陸)を修む」と書かれており、意味は「高麗も元の領土となったため、日本も和好を通じる使節を出すべきだ」というものであった。この文から、高麗と日本は同等な関係のため、日本も攻撃される前に降伏し、元の領土となるようにと元が言っているとも考えられる。その後7ヶ月も高麗は返事を待ったが来なかった。元はこれに怒り、高麗に日本へ攻めるための船などをすぐに作るよう命じたが、高麗は日本への航路は困難で、多くの船を作るのも難しい状況にあると反発いた。しかし元は、「高麗は一心に軍隊を作れ。日本への航路が困難というのは誤りで、追い風ならばわずか三日で着く距離であるから、なんの心配もいらない」と言った。実はこの約50年前、元は高麗に国書を送り、使者が返書と貢物を受け取って帰る途中何者かに殺された。以来数十年、高麗は6次に元軍の侵攻を受け遂に屈服、講和を結んで「元」に臣従した。そのため高麗は国として存在しているものの、ほとんど元の植民地という扱いとなっている。領土をさらに広げて力を付けたい、しかし国書を送ったにも関わらず何も返って来ない、さらには高麗にも反発が来るため鎮めたい、これが日本を攻めた一番の原因であると言える。文永の役までに使者は5回も来ている。最初日本では、朝廷が返書を送らないと決めたが、その後は返書だけは出す方針をとり、通行拒否の旨の返書を作成した。外交儀礼からも当然のことだが、幕府はそれを追い返した。文永の役後の建治元年(1275)に再度使者が送られた。内容は降伏勧告であったが、日本側はこれに反発し、高麗人を斬首し、その首を晒した。幕府は高麗進行を計画したが、防衛に重点を置いた。この行動は、朝廷に従い、中国に妥協的な態度を取ることで、幕府の得宗の専制を強化するのに障害になるからと幕府が考えたからである。朝廷の意見を無視し、政治的な取り決めを進めていったために朝廷が伝統的に握っていた外交権を奪ったが、このような横暴な態度や行動が元の2度の襲来を生んだと考えられる。


南宋を孤立させるための側面作戦

また、元は朝鮮、インドシナへと軍事行動を起こし、南宋を孤立させる作戦のため、日本にも手を伸ばしてきたと考えられる。西アジアへと領土を広げ、貿易ルートを確保していったが、東の海側の貿易ルートへと進出を考えていた。そのためにも海に面する朝鮮、南宋へと拡大する必要があった。その作戦のための標的として日本も加わり、東シナ海においての権力を握りたかったのだと思われる。



元にマルコ・ポーロは影響があったのか?

日本に注目がいったとされる、マルコ・ポーロの「東方見聞録」。内容的には、マルコポーロが旅立つまでの経緯を書いた短い序文に、中国への移動をしながら書いた中東の年代記、その他の産物、住民、信仰について描写している。マルコ・ポーロは中央アジアを経て1275年に元の大都(現在の北京)に着いた。フビライ・ハーンは礼を尽くして彼らを迎えた。マルコ・ポーロを特に気に入り、彼を汗の外交官として召し抱えた。約17年間勤めたという。その後苦しかった旅や中国での調査などを基に東方見聞録を完成させた。そしてその東方見聞録の注目するところは、3冊目のジパングについてである。このジパングが日本とされている。しかしこのジパングのことについて、内容がとても日本とは思えない。「千五百マイルは約二千四百キロメートルである。」、対馬海峡へは200キロメートル、中国の杭州を起点にしても日本までは1000キロメートルであるため、距離的に日本とは合わない。またジパングはこう紹介されている。「東のかた、大陸から1500マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。 この国ではいたるところに黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。」、「この国王の宮殿は黄金で出来ている。屋根はすべて純金でふかれている。床も、全部が指二本幅の厚さをもつ純金で敷きつめられている。」、このように金についてとても書かれているのは、日宋貿易の輸出品が金・刀剣・硫黄・扇・屏風・蒔絵などであったため、その記録から多くの金が取れ、周りに与えるほどにあるのだと考えたと思われる。金への関心は、当時すごいものであり、大航海時代は黄金の島を探すための時代であったとされる。あのコロンブスも、黄金の島を探している中でアメリカ大陸を発見したというのである。日本はその時代までは中国や朝鮮としか貿易を行っておらず、世界的に未知数な国であったであろう。中国の記録から金が取れることを知り、今まで探していた黄金の島は日本、ジパングではないだろくかと考えた結果、東方見聞録に書かれたのではないだろうか。また東方見聞録にはこのようにも書かれている。「またこの国には多量の真珠が産する。」、「この島に生えている木々は、いずれも強い芳香を放ちすこぶる貴重な香木であって、たとえば沈香その他に比べても決して劣らぬ高価なものである。黒胡椒はもとより、雪のような白胡椒も豊富なのである。黄金を初めとする様々な奇貨異物の産額も、これまた驚くばかりの巨額である。」、「チパング諸島が散在している海面を(チン海)と称するが、これはチパングの言語でチンとはマンジのことだから、マンジに面した海という意味である。この海を航行しなれて事情によく通じた老練な水夫や水先案内人の話では、この海域には7448の島々があって、その大部分に人が住まっているとのことである。」、このことから7448もの島々は多すぎる。なぜここまでジパングと日本に違いがあるかというと、マルコ・ポーロは日本には一度も来ていないのである。「ジパングは一年に一度しか往復できない遠い島国」と書かれており、とても遠いため行けない国だと考えられていた。そしてなぜジパングの位置が曖昧かというと、世界地図の骨格が出来上がったころにマルコ・ポーロが登場したのである。1375年にバルセロナで作られたカタロニア地図で、中国の東にはセイロン島はあるだけでジパングはまだ表れていない。1492年にマルチン・ベハイムの地球儀がジパングを最初に表したと思われる。この地図でもジパングとアメリカ大陸はとても近いように表されているため、距離が正確でないことがわかる。また蒙古襲来についても書かれている。「めざすこの島国に到着、上陸して多くの平野や村落を占領しはしたものの、まだ都市は一つも攻略できないでいるうちに、以下に述べるような災難が遠征軍にふりかかって来た。」と、この部分では日本と同じように災難が来たと書かれている。 以上のように東方見聞録のジパングと日本は個々に見ていくと違いが多く見られる。東方見聞録では、ジパングは一年に一度しか往復できない遠い島国、日本での災害後に孤島に生き残った兵士で船を奪い、首都を占拠したが7ヶ月で降伏となっているが、日本の歴史では元軍は数日で日本に到着、元軍は首都を占拠できず、生き残った兵士も殺害されたため、異なる点が多い。一度も行っていない、日本とは異なる点が多く、日本についての情報も中国の方が知っている点から、このような書物を読んでも攻め込んで領土を広げることにつながるとは思えない。今のように船も丈夫ではなく、災害によって航海中に命を落とすことが多かった時代である。曖昧な地理ではより不安である。以上のことから、マルコ・ポーロの東方見聞録の影響はほとんどなかったと言える。なぜ元寇に、東方見聞録が影響したと考えられたのかは、マルコ・ポーロとフビライ・ハンの交流があったこと、日本には金が多くあるといったところにあると思われる。




用語

異国警固番役

蒙古襲来に備えて西国海岸を交替で勤番した警固役。九州地方の御家人に課せられ、文永の役の前から設置されていたが、文永の役後、大幅に整備された。

防塁

元々は石築地と呼ばれていた。元の上陸を防ぐために築かれたもので、長さは20キロにもなるという定説もある。構築には御家人だけでなく、九州地方の所領所有者たちにも割り当てられた。

北条時宗

1251年(建長3年)に執権北条時頼とその正室重時の娘との間に産まれた。 鎌倉幕府8代執権。1264年連署、翌年相模守、68年に18歳で執権となる。積極的な対外強硬策を取り、国内政治では得宗政治への動きを見せた。

マルコ・ポーロ

(1254年9月15日 - 1324年1月8日)イタリア人で、1271年に東方へ出発し、中央アジアを経て元に入る。中国各地を旅行し、見聞を広め、「東方見聞録」を記した。

フビライ・ハン

(1215年9月23日 - 1294年2月18日)モンゴル帝国5代、元の初代皇帝。チンギスの孫。1271年大都(北京)に遷都し、国号を元と称した。高麗を属国、南宋を滅ぼす、アンナン・ジャワへと進出をした。



参考・引用文献

・多賀一史 「黄金伝説ジパングの謎」

・ドーソン 佐口透訳 「モンゴル帝国史」 平凡社

・上横手雅敬 「鎌倉時代―その光と影―」 吉川弘文館

・村井章介 「北条時宗と蒙古襲来」 日本放送出版協会

・佐伯弘次 「モンゴル襲来の衝撃」 中央公論新社

・石井・五味・笹山ら 「詳細日本史 改訂版 2007年」 山川出版社


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