山岡鉄舟

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生涯

山岡鉄舟は、天保7(1836)年6月10日、旗本の家に誕生した。家柄は600万石であった。鉄舟は少年時代から直心影流や北辰一刀流の剣術を学び、書もたしなんだ。このころの鉄舟は、飛騨に暮らしていた。しかし、鉄舟が十代後半のころ、両親が相次いで亡くなるという不幸に見舞われる。鉄舟は江戸へと戻り、大変な貧乏暮らしを余儀なくされることになり、「襤褸徹」と呼ばれることもあった。しかし、その間も剣術修行は止めなかったという。また、幕臣時代において、尊王攘夷の運動に深く関わっていった。当時は日米和親条約締結から間もない時期で、尊王攘夷思想が巷の武士の間で流行していた。鉄舟も、尊王攘夷の志士・清河八郎らとともに「虎尾の会」という政治組織を立ち上げた。徹舟は、徳川家茂が上洛する際、その警護を行う目的でつくられた「浪士組(新撰組の前身)」の幹部を務めていた。しかし、尊王攘夷を企てていた清河八郎が暗殺され、徹舟は謹慎処分となった。その後、徹舟は剣術と禅に打ち込むようになった。

徹舟の人生で最も大きな仕事といっても過言ではない出来事が、江戸無血開城の下交渉である。 慶応4年(1868年)、勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会した。2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかったため、徹舟を使者にした。徹舟は身長が188センチ、体重が105㎏と、とても大きな体であったため、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼んだ。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、


• 一、江戸城を明け渡す。

• 一、城中の兵を向島に移す。

• 一、兵器をすべて差し出す。

• 一、軍艦をすべて引き渡す。

• 一、将軍慶喜は備前藩にあずける。


というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷は、これは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷はこの論理をもっともだとして認めた。これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれた。3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。なお、この件で活躍した勝海舟、山岡徹舟、高橋泥舟の3人は「幕末の3舟」とも呼ばれている。


参考文献

http://rekitan.net/person/100630.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F http://www.tessyuu.jp/

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