韓国併合3
出典: Jinkawiki
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2012年2月9日 (木) 05:34の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) 次の差分へ → |
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その後、朝鮮半島をはさんで日本と清の関係が続く中、朝鮮国内で日本の朝鮮への経済進出による生活の困窮や悪政への反発として1894年甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発。日本・清の両国はこの乱の鎮圧を名目として出兵。ところが、このときすでに乱は鎮圧しており、和約が結ばれていたため、両軍は出兵の口実を失ってしまった。それでもこれを清国の影響力を排除する好機として日本は軍を駐留させ続けた。対して、清も軍の駐留を続けたため対立は続き、ついに1894年日清戦争が勃発した。日本はこれに勝利し、下関条約を締結し清国に朝鮮半島の独立を認めさせ、清国の影響力を排除し、日本の朝鮮における利益の独占に成功した。 | その後、朝鮮半島をはさんで日本と清の関係が続く中、朝鮮国内で日本の朝鮮への経済進出による生活の困窮や悪政への反発として1894年甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発。日本・清の両国はこの乱の鎮圧を名目として出兵。ところが、このときすでに乱は鎮圧しており、和約が結ばれていたため、両軍は出兵の口実を失ってしまった。それでもこれを清国の影響力を排除する好機として日本は軍を駐留させ続けた。対して、清も軍の駐留を続けたため対立は続き、ついに1894年日清戦争が勃発した。日本はこれに勝利し、下関条約を締結し清国に朝鮮半島の独立を認めさせ、清国の影響力を排除し、日本の朝鮮における利益の独占に成功した。 | ||
しかし、直後にロシア・フランス・ドイツによる三国干渉により日本が西欧列強に屈すると再び朝鮮内は政争が激化した。 | しかし、直後にロシア・フランス・ドイツによる三国干渉により日本が西欧列強に屈すると再び朝鮮内は政争が激化した。 | ||
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2012年2月9日 (木) 05:34の版
韓国併合とは、1910年(明治43年)に韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実のことを言う。 [経緯] (日清戦争までの流れ) その経緯は日清戦争以前にまで遡る。当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を維持しながら事実上の鎖国体制にありました。冊封とは天子を中心として、その近隣の諸国などと取り結ぶ君臣関係で、宗主国とその国に使いをやる朝貢国との関係に基づく外交関係のひとつである。 当時、植民地支配などにより国力を拡大させていた西欧列強や、朝鮮を自国に取り込もうとするロシアや大日本帝国(日本)は朝鮮で鎖国が続くことをいいようには思わず、開国させる機会をうかがっていた。そんな中、1875年に江華島事件が発生すると日本はそれをきっかけとして朝鮮と日朝修好条規を結び、朝鮮にたいして不平等条約を結ばせた。これにより、朝鮮は開国を強いられることになった。この中で西欧列強もそうであったように、自国の価値観を相手国に押し付けるという姿勢をとったことが朝鮮において日本への反発を招くことにもなってしまった。また、1890年、山県有朋は一国の独立の保持のためには国境である「主権線」だけでなく、「利益線」である朝鮮半島を守ることが必要だという主張を行い軍備拡大を唱えるなど、朝鮮半島の重要性を高めていった。 その後、朝鮮半島をはさんで日本と清の関係が続く中、朝鮮国内で日本の朝鮮への経済進出による生活の困窮や悪政への反発として1894年甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発。日本・清の両国はこの乱の鎮圧を名目として出兵。ところが、このときすでに乱は鎮圧しており、和約が結ばれていたため、両軍は出兵の口実を失ってしまった。それでもこれを清国の影響力を排除する好機として日本は軍を駐留させ続けた。対して、清も軍の駐留を続けたため対立は続き、ついに1894年日清戦争が勃発した。日本はこれに勝利し、下関条約を締結し清国に朝鮮半島の独立を認めさせ、清国の影響力を排除し、日本の朝鮮における利益の独占に成功した。 しかし、直後にロシア・フランス・ドイツによる三国干渉により日本が西欧列強に屈すると再び朝鮮内は政争が激化した。
(ロシアの影響)