韓国併合3

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韓国併合とは、1910年(明治43年)に韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実のことを言う。  韓国併合とは、1910年(明治43年)に韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実のことを言う。 
-  [経緯]+  【経緯】
-(日清戦争までの流れ)+ 
 +[日清戦争までの流れ]
 + 
その経緯は日清戦争以前にまで遡る。当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を維持しながら事実上の鎖国体制にありました。冊封とは天子を中心として、その近隣の諸国などと取り結ぶ君臣関係で、宗主国とその国に使いをやる朝貢国との関係に基づく外交関係のひとつである。 その経緯は日清戦争以前にまで遡る。当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を維持しながら事実上の鎖国体制にありました。冊封とは天子を中心として、その近隣の諸国などと取り結ぶ君臣関係で、宗主国とその国に使いをやる朝貢国との関係に基づく外交関係のひとつである。
当時、植民地支配などにより国力を拡大させていた西欧列強や、朝鮮を自国に取り込もうとするロシアや大日本帝国(日本)は朝鮮で鎖国が続くことをいいようには思わず、開国させる機会をうかがっていた。そんな中、1875年に江華島事件が発生すると日本はそれをきっかけとして朝鮮と日朝修好条規を結び、朝鮮にたいして不平等条約を結ばせた。これにより、朝鮮は開国を強いられることになった。この中で西欧列強もそうであったように、自国の価値観を相手国に押し付けるという姿勢をとったことが朝鮮において日本への反発を招くことにもなってしまった。また、1890年、山県有朋は一国の独立の保持のためには国境である「主権線」だけでなく、「利益線」である朝鮮半島を守ることが必要だという主張を行い軍備拡大を唱えるなど、朝鮮半島の重要性を高めていった。 当時、植民地支配などにより国力を拡大させていた西欧列強や、朝鮮を自国に取り込もうとするロシアや大日本帝国(日本)は朝鮮で鎖国が続くことをいいようには思わず、開国させる機会をうかがっていた。そんな中、1875年に江華島事件が発生すると日本はそれをきっかけとして朝鮮と日朝修好条規を結び、朝鮮にたいして不平等条約を結ばせた。これにより、朝鮮は開国を強いられることになった。この中で西欧列強もそうであったように、自国の価値観を相手国に押し付けるという姿勢をとったことが朝鮮において日本への反発を招くことにもなってしまった。また、1890年、山県有朋は一国の独立の保持のためには国境である「主権線」だけでなく、「利益線」である朝鮮半島を守ることが必要だという主張を行い軍備拡大を唱えるなど、朝鮮半島の重要性を高めていった。
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しかし、直後にロシア・フランス・ドイツによる三国干渉により日本が西欧列強に屈すると再び朝鮮内は政争が激化した。 しかし、直後にロシア・フランス・ドイツによる三国干渉により日本が西欧列強に屈すると再び朝鮮内は政争が激化した。
-(ロシアの影響)冊封体制から大韓帝国(朝鮮から改名)は脱したものの、満州に権益を得たロシアは勢力を広めていくために南下政策を進めていた。日本は外交の力で衝突を避けたかったが、朝鮮半島や満州の権益をめぐり対立を深めていった。そして、清国で義和団による武装蜂起に端を発する北清事変を、日本が中心となった連合8カ国が派遣した軍により鎮圧した。ところが、ロシアは+[ロシアの影響]
 + 
 +冊封体制から大韓帝国(朝鮮から改名)は脱したものの、満州に権益を得たロシアは勢力を広めていくために南下政策を進めていた。日本は外交の力で衝突を避けたかったが、朝鮮半島や満州の権益をめぐり対立を深めていった。そして、清国で義和団による武装蜂起に端を発する北清事変を、日本が中心となった連合8カ国が派遣した軍により鎮圧した。ところが、ロシアは
鎮圧後も軍を駐留させて韓国への権益拡大を狙っていたため、日本と衝突し遂に1904年日露戦争が勃発した。日本は開戦直後に朝鮮半島内での軍事行動の制約をなくすため、軍による圧力をかけ同年日韓議定書を締結させた。これにより、日本軍の自由行動が認められた。日韓議定書締結後、第一次日韓協約を行い、韓国の財政・外交顧問に日本人または日本側の人間を配置し、韓国政府内への影響力を強めた。日露戦争は辛くも日本の勝利という名目に終わり、1905年ポーツマス条約が締結され、結果としてロシアにも韓国に対する日本の指導権を一切認めさせることに成功した。  鎮圧後も軍を駐留させて韓国への権益拡大を狙っていたため、日本と衝突し遂に1904年日露戦争が勃発した。日本は開戦直後に朝鮮半島内での軍事行動の制約をなくすため、軍による圧力をかけ同年日韓議定書を締結させた。これにより、日本軍の自由行動が認められた。日韓議定書締結後、第一次日韓協約を行い、韓国の財政・外交顧問に日本人または日本側の人間を配置し、韓国政府内への影響力を強めた。日露戦争は辛くも日本の勝利という名目に終わり、1905年ポーツマス条約が締結され、結果としてロシアにも韓国に対する日本の指導権を一切認めさせることに成功した。 
-(第二次日韓協約~第三次日韓協約)ポーツマス条約によりロシアに韓国への指導権を認めさせたあと、1905年第二次日韓協約を締結した。この中で韓国の外交権を日本のものとし、この時点で韓国は事実上日本の保護国となった。さらに、韓国統監府を置き、初代統監に伊藤博文が任命された。これに対し、韓国側は「条約締結は無効」、「これは侵略行為だ」として日本の違法性を訴えるため、オランダのハーグ万国平和会議に密使を派遣したが、これは違法性がないとして拒絶されてしまった(ハーグ密使事件)。この事件に対して、日本側は大韓帝国の初代皇帝だった高宗を退位に追いやり、新たな皇帝を即位させた。さらに第三次日韓協約を締結させ、韓国の内政権を日本に認めさせ、韓国の軍隊を解散させた。+[第二次日韓協約~第三次日韓協約]
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 +ポーツマス条約によりロシアに韓国への指導権を認めさせたあと、1905年第二次日韓協約を締結した。この中で韓国の外交権を日本のものとし、この時点で韓国は事実上日本の保護国となった。さらに、韓国統監府を置き、初代統監に伊藤博文が任命された。これに対し、韓国側は「条約締結は無効」、「これは侵略行為だ」として日本の違法性を訴えるため、オランダのハーグ万国平和会議に密使を派遣したが、これは違法性がないとして拒絶されてしまった(ハーグ密使事件)。この事件に対して、日本側は大韓帝国の初代皇帝だった高宗を退位に追いやり、新たな皇帝を即位させた。さらに第三次日韓協約を締結させ、韓国の内政権を日本に認めさせ、韓国の軍隊を解散させた。
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 +[伊藤博文の暗殺]
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 +統監府の初代統監であった伊藤博文はハルピンにおいて、韓国の活動家である安重根により撃たれて暗殺された。ところが伊藤は韓国併合に対しては反対の立場をとっており、韓国保護国化は一時的なものしか考えていなかったとされるが、韓国ではその伊藤を倒した英雄として安重根が話されているなど、日韓での認識の差が大きいことをうかがわせている。結果として、伊藤博文は韓国併合論のブレーキ役となっていた一面があるが、それを失い、併合の動きは活発になっていくことになる。
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 +[韓国併合]
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 +伊藤博文の暗殺後、韓国併合に一定のブレーキをかけていた存在が消え、併合に向けて一気に加速した。1910年に韓国併合条約が結ばれ、それに伴い統監府を朝鮮総督府と改め初代総督に寺内正毅をおいてここに韓国併合は完了した。
-(伊藤博文の暗殺)統監府の初代統監であった伊藤博文はハルピンにおいて、韓国の活動家である安重根により撃たれて暗殺された。ところが伊藤は韓国併合に対しては反対の立場をとっており、韓国保護国化は一時的なものしか考えていなかったとされるが、韓国では安重根が英雄とされるど、日韓での認識の差は大きいことをうかがわせている。+【考察】
-(韓国併合)伊藤博文の暗殺後、韓国併合に一定のブレーキをかけていた存在が消え、併合に向けて一気に加速した。1910年に韓国併合条約が結ばれ、それに伴い統監府を朝鮮総督府と改め初代総督に寺内正毅をおいてここに韓国併合は完了した。+韓国併合については、日本側と韓国側でいくつかの食い違いがあり、まだ隔たりが多いことも事実である。例えば上記にあるように伊藤博文に対しての意見については違った見解がある。こうしたことを明らかにしていくには、お互いの私的感情を取り除き、史実に忠実に照らし合わせて検証しあっていくことが必要である。そうすることで様々な経験から変化して言った日韓関係も、より一層良好なものになるのではないだろうか。
-[考察]韓国併合については、日本側と韓国側でいくつかの食い違いがあり、まだ隔たりが多いことも事実である。例えば上記にあるように伊藤博文に対しての意見については違った見解がある。こうしたことを明らかにしていくには、お互いの私的感情を取り除き、史実に忠実に照らし合わせて検証しあっていくことが必要である。そうすることで様々な経験から変化して言った日韓関係もより一層良好なものになるのではないだろうか。+

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韓国併合とは、1910年(明治43年)に韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実のことを言う。    【経緯】

[日清戦争までの流れ]

その経緯は日清戦争以前にまで遡る。当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を維持しながら事実上の鎖国体制にありました。冊封とは天子を中心として、その近隣の諸国などと取り結ぶ君臣関係で、宗主国とその国に使いをやる朝貢国との関係に基づく外交関係のひとつである。 当時、植民地支配などにより国力を拡大させていた西欧列強や、朝鮮を自国に取り込もうとするロシアや大日本帝国(日本)は朝鮮で鎖国が続くことをいいようには思わず、開国させる機会をうかがっていた。そんな中、1875年に江華島事件が発生すると日本はそれをきっかけとして朝鮮と日朝修好条規を結び、朝鮮にたいして不平等条約を結ばせた。これにより、朝鮮は開国を強いられることになった。この中で西欧列強もそうであったように、自国の価値観を相手国に押し付けるという姿勢をとったことが朝鮮において日本への反発を招くことにもなってしまった。また、1890年、山県有朋は一国の独立の保持のためには国境である「主権線」だけでなく、「利益線」である朝鮮半島を守ることが必要だという主張を行い軍備拡大を唱えるなど、朝鮮半島の重要性を高めていった。 その後、朝鮮半島をはさんで日本と清の関係が続く中、朝鮮国内で日本の朝鮮への経済進出による生活の困窮や悪政への反発として1894年甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発。日本・清の両国はこの乱の鎮圧を名目として出兵。ところが、このときすでに乱は鎮圧しており、和約が結ばれていたため、両軍は出兵の口実を失ってしまった。それでもこれを清国の影響力を排除する好機として日本は軍を駐留させ続けた。対して、清も軍の駐留を続けたため対立は続き、ついに1894年日清戦争が勃発した。日本はこれに勝利し、下関条約を締結し清国に朝鮮半島の独立を認めさせ、清国の影響力を排除し、日本の朝鮮における利益の独占に成功した。 しかし、直後にロシア・フランス・ドイツによる三国干渉により日本が西欧列強に屈すると再び朝鮮内は政争が激化した。

[ロシアの影響]

冊封体制から大韓帝国(朝鮮から改名)は脱したものの、満州に権益を得たロシアは勢力を広めていくために南下政策を進めていた。日本は外交の力で衝突を避けたかったが、朝鮮半島や満州の権益をめぐり対立を深めていった。そして、清国で義和団による武装蜂起に端を発する北清事変を、日本が中心となった連合8カ国が派遣した軍により鎮圧した。ところが、ロシアは 鎮圧後も軍を駐留させて韓国への権益拡大を狙っていたため、日本と衝突し遂に1904年日露戦争が勃発した。日本は開戦直後に朝鮮半島内での軍事行動の制約をなくすため、軍による圧力をかけ同年日韓議定書を締結させた。これにより、日本軍の自由行動が認められた。日韓議定書締結後、第一次日韓協約を行い、韓国の財政・外交顧問に日本人または日本側の人間を配置し、韓国政府内への影響力を強めた。日露戦争は辛くも日本の勝利という名目に終わり、1905年ポーツマス条約が締結され、結果としてロシアにも韓国に対する日本の指導権を一切認めさせることに成功した。 

[第二次日韓協約~第三次日韓協約]

ポーツマス条約によりロシアに韓国への指導権を認めさせたあと、1905年第二次日韓協約を締結した。この中で韓国の外交権を日本のものとし、この時点で韓国は事実上日本の保護国となった。さらに、韓国統監府を置き、初代統監に伊藤博文が任命された。これに対し、韓国側は「条約締結は無効」、「これは侵略行為だ」として日本の違法性を訴えるため、オランダのハーグ万国平和会議に密使を派遣したが、これは違法性がないとして拒絶されてしまった(ハーグ密使事件)。この事件に対して、日本側は大韓帝国の初代皇帝だった高宗を退位に追いやり、新たな皇帝を即位させた。さらに第三次日韓協約を締結させ、韓国の内政権を日本に認めさせ、韓国の軍隊を解散させた。

[伊藤博文の暗殺]

統監府の初代統監であった伊藤博文はハルピンにおいて、韓国の活動家である安重根により撃たれて暗殺された。ところが伊藤は韓国併合に対しては反対の立場をとっており、韓国保護国化は一時的なものしか考えていなかったとされるが、韓国ではその伊藤を倒した英雄として安重根が話されているなど、日韓での認識の差が大きいことをうかがわせている。結果として、伊藤博文は韓国併合論のブレーキ役となっていた一面があるが、それを失い、併合の動きは活発になっていくことになる。

[韓国併合]

伊藤博文の暗殺後、韓国併合に一定のブレーキをかけていた存在が消え、併合に向けて一気に加速した。1910年に韓国併合条約が結ばれ、それに伴い統監府を朝鮮総督府と改め初代総督に寺内正毅をおいてここに韓国併合は完了した。

【考察】

韓国併合については、日本側と韓国側でいくつかの食い違いがあり、まだ隔たりが多いことも事実である。例えば上記にあるように伊藤博文に対しての意見については違った見解がある。こうしたことを明らかにしていくには、お互いの私的感情を取り除き、史実に忠実に照らし合わせて検証しあっていくことが必要である。そうすることで様々な経験から変化して言った日韓関係も、より一層良好なものになるのではないだろうか。


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