佐久間象山

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  ・また、藩士町田源左衛門に就いて会田流の和算(日本古来の数学)を学んだ。    ・また、藩士町田源左衛門に就いて会田流の和算(日本古来の数学)を学んだ。 
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-      宮本市兵衛から和算の蘊奥(うんおう;学問・技芸などの奥深いところ)を極める。 
1828年 ・家督を継ぐ 1828年 ・家督を継ぐ
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1839年 ・再び江戸に遊学する。 1839年 ・再び江戸に遊学する。
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- ・神田お玉が池に象山書院を開く。 
1840年 ・「邵康節先生文集」を編集する。 1840年 ・「邵康節先生文集」を編集する。
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1850年 ・松代城南虫歌山麓で砲術を演じる。 1850年 ・松代城南虫歌山麓で砲術を演じる。
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- ・幕府よりオランダ語字書の出版不許可の返事がある。 
1851年 ・松代城西生菅村で大砲の射撃を演じ、幕領で紛争がおこる。 1851年 ・松代城西生菅村で大砲の射撃を演じ、幕領で紛争がおこる。

2012年2月10日 (金) 13:18の版

信州松代藩士。文化8年(1811)~元治元年(1864)


概要

松代藩の下士佐久間国善(くによし)の長男として、松代町浦町に生まれる。幼名啓之助。少年時代から秀才の誉れ高く、天保4年江戸に出て佐藤一斎に学び、渡辺崋山・藤田東湖などと親交を深めた。朱子学者であった象山は、ひそかに陽明学を信奉していた一斎に不満をもち、一斎からは経書の講義をいっさい受けず、もっぱら文章詩賦(しふ)を学んだと伝えられる。同10年江戸神田阿玉池に私塾を開く。同13年藩主真田幸貫が老中海防掛となると、顧問として海外の事情を研究した。弘化元年黒川良安と蘭学・漢学の交換教授を行い、オランダの百科辞典などによって洋学の知識を身につけた。その後嘉永3年深川の藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟・橋本左内ら多くの人材を集めた。同6年門人吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居(ちっきょ)を命じられた。文久2年蟄居を許された。この間、洋書を読んで西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を積極的に主張するとともに、固定的な攘夷(じょうい)論から現実的な和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになった。


生涯

1811年 ・信濃の国埴科郡松代町字浦町(現在の長野県長野市松代町)の自宅で生まれる。

1813年 ・乳母の背中から、近くの禅刹大林寺門前の立石に刻まれていた「禁葷酒(きんくんしゅ)」を覗き見し、「禁」の文字を覚え父親の目の前で書いた。

     ・父が毎晩、易書を音読していて、それを聞いて、この頃、周易六十四卦(しゅえきろくじゅうしけ)をすべて記憶した。

1816年 ・学業をはじめる 

1824年 ・松代藩主真田幸専へ50歳の祝いの歌を差し出し受け入れられた。この時期から、詩や文集などを恵まれた学問的環境のなかで学ぶ。

1825年 ・成人に達したことを示すための儀式を行う。

1826年 ・藩老鎌原桐山(佐藤一斎の門下,松代藩第一級の高士)に入門(入学)し経学(四書・五経など経書を研究する学問)を学んだ。

  ・また、藩士町田源左衛門に就いて会田流の和算(日本古来の数学)を学んだ。 

1828年 ・家督を継ぐ

1831年 ・藩の跡継ぎの近習役になるが二月で辞職。

1833年 ・江戸に遊学し、佐藤一斎の門に入る。

1834年 ・「神溪先生年譜」「佐久間氏略譜」を作る。

1835年 ・御城付月次講釈助となる。

1836年 ・藩に戻る。

     ・象山の名を用い始める。

1837年 ・学政改革の意見書を藩に提出する。

1838年 ・名を修理と改める。

1839年 ・再び江戸に遊学する。

1840年 ・「邵康節先生文集」を編集する。

1841年 ・江戸藩邸学問所の頭鳥となる。

1842年 ・藩主真田幸貫が海防係となり、象山に海外事情の研究を命じる。

     ・江川担庵に入門する。

     ・「海防八策」を上の者に伝える。

1843年 ・郡中横目役となる。

     ・いったん藩に帰り、江戸での殖産興業策の準備をする。

1844年 ・黒川良安にオランダ語を習い始める。

     ・郡中横目役として鞜野村に出張する。

1845年 ・カルテンの砲術書を読んで江川説に疑問を抱く。

1846年 ・松代に帰り御使者小屋を借りて住む。

1847年 ・郡中横目役をおろされる。

1848年 ・鞜野山中に入り鉱脈を発見する。

1849年 ・オランダ語字書『ズーフ・ハルマ』の増補改訂版の出版を幕府に願い出る。

1850年 ・松代城南虫歌山麓で砲術を演じる。

1851年 ・松代城西生菅村で大砲の射撃を演じ、幕領で紛争がおこる。

     ・小林虎三郎や吉田松陰などが入門する。

1853年 ・米艦が浦賀に来て、藩の軍議役に任じられる

     ・「急務十条」を書き老中阿部正弘に提出する。

1854年 ・吉田松陰の密航事件で罰せられ、江戸伝馬町のろうやに入る。

     ・蟄居を命じられ、松代に帰る。その際獄中で「省けん録」を作成する。

1855年 ・松陰「幽囚録」を送り、見てもらう事を要請する。

1858年 ・門人馬場常之助を京都に遣わし、梁川星巌に秘密の書物を送り、アメリカとの通商条約に対する意見を関白以下の公家に申し立てることを依頼する。

1859年 ・藩庁によりろうやに入れられた吉田松陰は高杉晋作に「三大質問」を象山の元へ送らせる。

1860年 ・高杉晋作が松陰の書を持ってくる。

1862年 ・長州藩(久坂玄瑞ら)、土佐藩(中岡慎太郎ら)が象山を招くことを計画する。

     ・蟄居が許される。

1863年 ・京都御所表より内意が伝えられたが、九月政変により中止になる。

1864年 ・幕府の命令により、都へ上がる。

     ・海陸御備向掛手付を命じられる。

    ・天皇を彦根に移す計画をたてる。

     ・山階宮邸に奉仕をするため伺った帰り途中、三条木屋町寓居の近くで暗殺される。


参考資料

佐久間象山と日本の歴史 [1]


  人間科学大事典

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